思う所あって、京都行を敢行して、直ぐに気付いた事があった。
私が、思う所あって、京都行を敢行して、直ぐに気付いた事があった。
日本人と云うのは、その始まりから、古今東西の人間が、そうであったように、権力闘争を繰り広げて来た…仏教家においてすら、そうであったことは、比叡山延暦寺や興福寺を訪れれば分かる事。
だが、実に特徴的な事があるのである。
それは何かと云うと、倒した相手、殺した相手、島流しにした相手、…先般、ご紹介した鵺(ぬえ)に於いてすら…たちを、そのつど…敬う、慰撫するために立派な神社仏閣や石碑を建てて来た、という、紛れもない事実である。
つまり、古代から日本人は、物事の判断に絶対はなく、…特に権力闘争に於いては、大いに、私的な因縁であったことを、自覚していたと云っても過言ではなかろう。
だから、その私的な因縁でもって倒した相手の名誉を、回復する事が必須で在ったはずなのだ。
そういう伝統すら忘れて、時の権力の恣意をうのみにしたような一人の男、その売りは、東大出である事位だった、そう言う者を、あろうことか神に祀りあげて、一代の傑物を闇に葬り続けて来た、その罰が今、下っているのだと云えば、現在の日本の有様は、はっきり見えるのではないか。