一方、本物の申順女は北朝鮮にいるので供述の取りようがなく、結局、彼女に特別在留許可を与えた。彼女は入管まで騙したことになる。

2024年04月18日

昨日、発信した「It was a popular page yesterday, 2018/4/17.」の第一位にランクインしていた章である。
この「従軍慰安婦」と自称した工作員のことに触れているマスコミは国内にはない。
2018年04月16日 
この章は、今は、ネットにこそ真実が在る事を証明していた。
我ながら、本欄は凄いと思いながら再読、更に確認のために検索し、一層、ネットにこそ真実が在るとの思いを深くした。
何故なら、この李善実についての記事は、朝日新聞等を購読し、NHK等を視聴しているだけの人たちは一生、知りえない事実だからである。

先ず、私が紹介した冒頭のネット上の労作を再掲載する。
この基金を受け取った自称慰安婦を差別・迫害して妨害した「艇対協」の幹部の名が梁美康なのだが、同一人物か?
◎「女性国際戦犯法廷」に対する冒涜と誹謗中傷を許さない日・朝女性の緊急集会 
日 時 2月1日(火)  14:00~ 
発 言 西野 瑠美子(VAWW-NET Japan共同代表) 
    清水 澄子(朝鮮女性と連帯する日本婦人連絡会代表) 
    金 昭子(在日朝鮮民主女性同盟中央本部委員長)
   梁 美 康(韓国・アジアの平和と歴史教育連帯・常任運営委員長)←★
会 場 主婦会館 (JR四ツ谷駅・麹町出口1分) 
主 催 「女性国際戦犯法廷」に対する冒涜と誹謗中傷を許さない日・朝女性の緊急集会実行委員会 
ぐぐってみたら。すごい、対策協議会まで出来てるんだ。 >挺身隊
韓国・挺身隊問題対策協議会(挺対協・ていたいきょう,CHUNG-DAE-HYUP)
http://www.zephyr.dti.ne.jp/~kj8899/kteitai.html 
初期の頃、韓国で活動した慰安婦の中に李善美という婆さんがいたらしいのだが、この女はその後北朝鮮工作員の大物であることがバレ、韓国から国外追放になった。
李善美は今現在も北朝鮮で健在で、北朝鮮の序列もなんと8位~12位に位置付けられている。
この「従軍慰安婦」と自称した工作員のことに触れているマスコミは国内にはない。
韓国では当時相当騒がれたらしいから、韓国には何か資料が残っていると思うのだが。 

92年9月国家安全企画部,北から潜入した李善美労働党政治局員候補が,地下組織を作ったとし、一斉摘発に乗り出す
2018年04月16日
李善美
これ?
http://www10.plala.or.jp/shosuzki/korea/timetable/timetable4.htm
92年9月国家安全企画部,北から潜入した李善美労働党政治局員候補が,地下組織を作ったとし、一斉摘発に乗り出す.
<朝銀東京不正経理>使用者責任認定 総連に賠償命令
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050131-00000083-mai-soci

以下は、ウィキペディアに記載されていた「李善美」についてである。
日本国民のみならず世界中の人たちが必読。
李 善実(リ・ソンシル、리 선실、1916年1月 – 2000年8月)は、序列22位まで上り詰めた朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)最高位の女諜報員であるが、2000年の深化組事件で拷問死した。
朝鮮労働党統一戦線部副部長、党政治局候補委員、最高人民会議代議員。死後に名誉回復された「共和国英雄」。
北朝鮮で最も人気のあるスパイドラマ『名もなき英雄(英語版)』のモデルといわれる。

日本に渡って在日朝鮮人に偽装し、韓国に合法的に潜入するという手法を確立した。
この手法は、対南工作や日本人拉致等で多用されている。

出生名は李花仙(リ・ファソン。工作活動の過程で申順女(シン・スニョ)、李仙花(イ・ソヌァ)という偽名も使用している。

前半生
済州島南部の村、大静邑加波里の出身。
父は李在春(リ・ジェチュン)、母は金庚良(キム・ギョンヤン)。
六男一女の長女で、本名を李花仙(リ・ファソン)という。
幼いころから利発な子として近所でも評判であったが、家が貧しかったため、加波の小学校を4年で中退した。
1930年、母親とともに大阪に出稼ぎに来ていた父親を訪ねて3年ほど同地で暮らし、その後、朝鮮に戻って主として釜山で生活した。

1937年、李花仙は加波の小学校の同級生で漁師をしていた金太鐘(キム・テジョン)と結婚した。
1940年、2人は長崎県対馬島に渡り、夫は潜水夫、彼女は裁縫の仕事で生計を立てた。
第二次世界大戦後の1947年、夫とともに帰国して釜山の影島に居住、子どものいなかった2人は4歳の女児を養子として迎え入れた。
しかし、夫は間もなく妻子を残して単身対馬に戻り、別の女性と同棲、子をなした。

釜山に残された彼女は、当時大きな勢力となっていた南労党(南朝鮮労働党)の女性運動に参加し、同年配の女性党員から共産主義思想を叩き込まれた。
その後、北朝鮮労働党から釜山に派遣されてきた破壊工作員(金三龍)が李善実の家を訪れ、彼女と同棲生活を始めた。
1950年、同棲中の活動家が工作活動中、韓国治安当局に現行犯逮捕され(のち処刑)、李善実も指名手配された。
李善実は「この恨みはきっと晴らす」と言い残して越北(北朝鮮に逃亡)し、パルチザン(非正規軍)としての生活を始めた。
北朝鮮に移ってからの彼女は李善実(リ・ソンシル)を名乗るようになった。
この年6月の朝鮮戦争勃発直後、ソウルを訪れて政治工作に加わった彼女は、このとき金太鐘の兄金太能を訪ね、夫の近況を確かめている。
すぐに平壌に戻った李善実は、朝鮮労働党直属の金剛学院で集中的に思想教育を受けた。
卒業後の彼女は政治分野で頭角を現し、軽工業委員会の課長、黄海道女性同盟幹部、平壌市女性同盟副委員長などを歴任した。
1963年、彼女は金日成にあてて「祖国統一事業に一生をささげたい。対南工作戦線の戦闘員にしてほしい」と直接嘆願書を出した。
金日成は彼女に、北朝鮮工作員養成機関(のちの金正日政治軍事大学)に入学せよとの命令を下した。
彼女は1年間、諜報工作と破壊工作に必要な知識・技能を徹底して学び、卒業時には韓国に潜入して対南工作をおこなうよう指令を受けた。

対南工作
彼女は、韓国内で大規模なスパイ網を築き上げることとなるが、それ以前に2回、韓国に潜入している。
最初は1966年8月、北朝鮮の特殊工作船で江華島に密入国し、ソウルや釜山に約5年潜伏して1971年に北朝鮮に帰還した。
2度目は、1973年4月、同じルートで韓国に入国して5か月間、ソウル、釜山に潜伏して同年9月に北朝鮮に戻った。
労働党連絡部(のちに改組されて社会文化部、現在の対外交流局)は彼女のスパイとしての力量を高く評価した。

日本への潜入
李善実には、大規模な工作活動を展開するための長期韓国潜入という重大な任務が下った。
そのためには韓国内で合法的な身分を取得する必要があったが、彼女が目をつけたのは日本であった。

彼女は、以前に在日朝鮮人として日本に暮らしたことがある女性で、しかも今は北朝鮮に移り住んでいて、なおかつ年齢や出身地がなるべく自分に近い人物を探した。
このような条件に合致したのが北朝鮮の地方都市に住んでいた申順女という女性であった。
彼女は1960年に日本から北朝鮮に渡り、全羅北道には実姉がおり、神戸市には異母弟が住んでいた。
彼女は申順女に近づき、幼いころの記憶や両親の死亡年月なども含めた肉親に関する情報を細かいところまで調べ、彼女が日本に住んでいた頃に両親と一緒に撮った写真も入手した。
以後、彼女は申順女(シン・スンヨ)に成りすまし、工作活動を展開することとなる。

1974年1月、彼女は日本海側の海岸から日本に密入国し、神戸にいる「異母弟」に会いに行き、あたかも自分が申順女であるかのように振る舞って両親の写真をみせた。
実際に申順女に会ったことのなかった「異母弟」はすっかり彼女が申順女であると騙されてしまった。
彼女は、1974年3月、東京都荒川区役所で、同区に住む親戚を保証人として「申順女」の名で外国人登録を申請し、受理された。
そして、彼女は東京入国管理局に出頭して、自分が韓国の馬山市からの密入国者だと「自首」し、特別在留許可を申請した。
不法入国者は、本来ならば強制退去させられるのであるが、やむを得ない事情がある場合には特別在留許可が下りることがある。
李善実は、1964年に密入国して李東春という韓国人男性と同棲してきたが、彼が神経痛で動けなくなったので自分が働きながら看病しているという「やむを得ない事情」を捏造した。
なお、李東春は工作活動における土台人に相当する。

東京入管は彼女の供述を調査していくなかで本物の申順女は1960年に日本から北朝鮮に渡ったことに気づき、その点を本人に指摘したが、李善実は自分こそが本物の申順女で北朝鮮に渡ったのは偽物であると主張し、自分の両親がどこでいつ亡くなったかなどを詳細に語り、写真も見せた。
東京入管が調べたところ、はたして彼女の供述通りであった。
一方、本物の申順女は北朝鮮にいるので供述の取りようがなく、結局、彼女に特別在留許可を与えた。
彼女は入管まで騙したことになる。
この稿続く。


2024/4/12 in Kyoto

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