「駐留するけど防衛の義務は負わない」、これがのちに吉田茂が独りでサインした吉田安保だ。それを「駐留するなら防衛の義務を負う」と改めたのが、岸信介が結んだ60年安保で、何の不都合もなかった
朝鮮戦争期、米国は日本の再軍備を求めたが、吉田茂は拒否し、米国は“天皇外交”まで仕掛けて圧力をかけた。そこで示された「駐留するが日本を守らない」という方針を覆し、「駐留するなら防衛義務を負う」形に改めたのが岸信介による60年安保である。この極めて単純な歴史的事実を、当時の東大生を含む安保反対派は誰一人知らなかった。岸信介と安倍晋三に受け継がれた“最高のリアリスト”としての知性と見識、そして祖父から孫へ受け継がれる政治的洞察を示す論考。
だが、言わば極めて単純な事実を、当時最高学府で学んでいた学生達の誰一人として知らなかった。
2024年05月13日
「駐留するけど防衛の義務は負わない」、これがのちに吉田茂が独りでサインした吉田安保だ。それを「駐留するなら防衛の義務を負う」と改めたのが、岸信介が結んだ60年安保で、何の不都合もなかった
2019年07月21日
祖父から孫に伝わるもの…偉大な祖父の見識は孫に伝承される
戦後の世界で唯一無二のジャーナリストである高山正之は、米国が日本に与えた憲法は、ローマ帝国がカルタゴを滅亡させたときに取った命令に倣ったものである事を教えてくれている。
朝鮮戦争が勃発した途端に(共産主義国家の実態、朝鮮半島の実態を初めて知った)米国は、180度態度を変えて、吉田茂に日本の参戦を強く依頼した。吉田は、彼らが丸腰にした日本であるとして、言わば、初めて米国に肘鉄を食らわせた。
この時、ダレス長官は、吉田の出方を予想して、天皇を政治利用する二面作戦を取った事を、月刊誌Hanadaで、わが母校の敬すべき先輩である堤堯氏は教えてくれている。
その中に、この稿の主題である「祖父から孫に伝わるもの」について、極めて重要な事例があるのである。
前文省略
かつてこんなことがあった。
朝鮮戦争が起こって、ダレスは吉田茂に再軍備を要請した。
日本の戦力を使役したいからだね。
吉田は言を左右に一向に応じない。
そこでダレスは、昭和天皇に近い松平康昌、渡辺武(大蔵官僚)らを集め、彼らを通じて「天皇外交」を試みる。
一種の二元外交だ。
その際、彼らを前にダレスは言う。
「トルーマン大統領のメッセージをお伝えする。『わがアメリカは勝者の権利として駐留する。しかし、駐留はするが日本を守る義務は負わない』。これが大統領のメッセージだ」
渡辺の回想録に出てくる話だ。
「駐留するけど防衛の義務は負わない」、これがのちに吉田茂が独りでサインした吉田安保だ。
それを「駐留するなら防衛の義務を負う」と改めたのが、岸信介が結んだ60年安保で、何の不都合もなかった。
後略。
私は、以前に、岸信介は、朝日新聞が広めて来たような妖怪などとは正反対の、当時の日本で最優秀な頭脳を持った偉人であると書いた。
満州国の首都が、当時の世界で最も美しい街だったとの知見が、岸氏が内務官僚として満州国の運営に携わっていた事実と重なった時に確信したからなのだが。
堤氏が教えてくれた事実は、岸信介が、私の確信以上の最高の政治家だった事を明らかにしている。
最高のリアリストとして常に本質を見抜く頭脳…安倍首相が、この最も大事な資質を受け継いでいる事は、もはや世界が知る事実である。
だが、言わば極めて単純な事実を、当時最高学府で学んでいた学生達の誰一人として知らなかった。
戦後最高の学者だった西部邁氏は、当時、東大生として全学連の中心メンバーの一人だったが、この事は全く知らずに、安保反対を叫んでいた事を告げ、岸信介は全く当然の事をしたと認めている。
当時の安保反対と言っていた人間達の全員が、こんな単純な事実を知らなかったのである。
岸信介の政治家としての、これ以上ない見識が、彼の「国民の声なき声に耳を傾ける…」発言と、昭和天皇が、心から彼を敬愛していた所以を、私が永遠に愛する母校の先輩から教えて頂いた事ほど有難い事はない。
愛知揆一氏は、わが母校を一番で卒業し、東大法学部も同様の成績で卒業して大蔵省で事務方の最優秀選手として国の財政運営に携わった。
自他の意思が働いて、その能力を日本国の政策立案決定に生かすべく自民党の政治家になった。
彼が大臣を歴任していた時、母校の体育祭に挨拶に訪れた彼を、私は二度、直に見ている。
その愛知揆一の天下国家を見る目は、愛知治郎が、例え婿養子であったとしても…常に、偉大な祖父の見識は孫に伝承されるものなのである。

2024/5/11 in kyoto