米国は戦後、日本人のずば抜けた科学する心を学術会議によって封印させた。学術会議の言う平和は「白人の平和」なのだ。
2024年05月28日
本稿は、高山正之『変見自在・バイデンは赤い』から、日本人の「科学する心」と戦後アメリカの対日政策、そして日本学術会議の本質を抉り出す一篇を紹介するものである。
堀田瑞松の防錆塗料、下瀬火薬、長岡半太郎の原子模型、八木秀次のアンテナ、高柳健次郎のテレビ、武井武のフェライトなど、日本の独創的科学技術が白人世界に利用・収奪されてきた歴史を具体的に描く。
日本は原爆理論や濃縮技術を持ちながら、白人のような「悪魔の兵器」を先に使う心根を持たなかったため、結果として広島に原爆を受ける側となった、という冷厳な指摘が続く。
そして戦後、米国は日本人の卓越した科学的才能を封じ込めるために日本学術会議をこしらえ、その「平和」理念とは、実は白人による支配を安定させるための「白人の平和」に過ぎないのだと喝破している。
米国は戦後、日本人のずば抜けた科学する心を学術会議によって封印させた。学術会議の言う平和は「白人の平和」なのだ。
2024年05月28日
以下は高山正幸の著書「変見自在・バイデンは赤い」嘘つき大統領、不勉強な学者、節操のないメディア…フェイクを見抜く49篇、の49ページからである。
本論文も彼が戦後の世界で唯一無二のジャーナリストである事を証明している。
本論文も、彼はノーベル文学賞に最も相応しい作家であるとの私の評の正しさを証明している。
米国がこしらえた学術会議
京都御所の御用を務める彫刻家、堀田瑞松(ずいしょう)は「帝も感嘆するいい仕事をした」と高等小学校読本にある。
瑞松は明治御維新後もいい仕事をした。
その時代、艦船は木造から鉄の船に変わっていったが、ついでに船底を蝕む錆という難題も生まれてきた。
瑞松は漆が錆をよく抑えるのを知っていた。
漆を素材に防錆を試して明治18年、堀田式錆止め塗料を世に出し、日本の特許第1号となった。
その効能を最初に立証したのは露巡洋艦ドミトリー・ドンスコイだった。
新鋭繿なのに錆に泣かされ、たまたま寄港した日本で瑞松の話を聞いた。
藁にもすがる思いで塗ってもらったら効果は抜群だった。
艦齢も延び、17年後の日本海海戦にバルト艦隊の主要艦の一隻として臨めた。
この海戦、露側の圧勝が囁かれていた。
なぜなら当時の戦艦は西欧が独占製造し、露は仏から戦艦ツェザレウィッチを買い、それをモデルにボロジノ、スワロフなどを建艦した。
日本も欧州製を買っていたから日露ともに戦艦の性能はほとんど互角だった。
ということは日本の3倍の戦艦数を持つロシアが圧倒的に有利だった。
それをどう覆すか。
下瀬雅允(しもせまさちか)は敵の砲弾の3倍の破壊力を持つピクリン酸炸薬(さくやく)を詰めた砲弾を考えた。
ただピクリン酸は鉄に触れた途端、爆発する性質を持つ。
鉄の弾頭にどう封じ込めるか。
下瀬はそこで瑞松の漆を思い出し、弾頭内部に漆を塗ってみた。
下瀬火薬の発明の瞬間だった。
旗艦スワロフ以下の露艦隊は対馬沖で日本艦隊が放つ砲弾を初めて見た。
「砲弾は艦体のどこかに触れただけで深紅の炎を噴き出し全てを焼き尽くした」ラリボイ『ツシマ』)。
鋼鉄の装甲を施したオスラビアが燃えて沈み、スワロフは鉄屑と化した。
ドミトリー・ドンスコイもまた深紅の猛火に包まれて鬱陵島沖で自沈した。
日本人は圧倒的に強大で無慈悲な白人国家の侵略を自分たちの知恵と工夫で撥ね返した。
日本はその後も世界が驚く知恵を次々披露した。
原子構造について欧米では電子と陽子が「まるで小豆ご飯のように入り乱れて存在する」と思っていた。
長岡半太郎は日露戦争のころ「土星とその輪のように陽子を中心に周辺を電子が回っている」と発表した。
大正期、八木秀次は超短波用指向性無線アンテナを考案した。
つまりレーダーを生み出した。
昭和初期、高柳健次郎はブラウン管を使った映像受信に成功した。
最初に受信した映像は「イ」だった。
同じころ武井武は非金属磁石フェライトを発明して特許を取った。
鉄でない磁石は例えば録音テープも可能とした。
白人たちは日本人の知恵をすぐに盗んだ。
ラザフォードは長岡理論を追認することでノーベル賞を受賞した。
八木の知恵は英米が即座に軍用レーダーにした。
高柳のテレビは米軍が戦後、誘導ミサイルの目にした。
フェライトは戦後のどさくさに戦勝国オランダのフィリップス社が横取りした。
この技術で今のステルスが可能になった。
民間の技術を軍事に転用するのをスピン・オンと言う。
この一連の「盜んで軍事転用」はさしずめスティール(叩邑)・オンになるか。
そんなコソ泥米国が先の大戦前、核分裂についての論文の発表を突然止めた。
とても怪しかった。
日本では1グラムのウラン235が臨界点を超すとTNT1万3500トンの爆発力を持つのを知っていた。
仁科芳雄、湯川秀樹らが研究をしていて、濃縮用のフッ化ウランもつくっていた。
鴨緑江に70万キロワットの水豊ダムが完成したから、その気なら核兵器はできた。
しかしそんな悪魔の兵器をいかな米国でも実戦に使うとは思えなかった。
開発は遅れて先に広島に原爆が落ちた。
日本人の科学者が白人の非情な心根を持っていたら日本はとっくに核を持てた。
そうなれば米国は報復を恐れ、広島には落とさなかっただろう。
米国は戦後、日本人のずば抜けた科学する心を学術会議によって封印させた。
学術会議の言う平和は「白人の平和」なのだ。
(2020年12月3日号)


2024/5/25 in Kyoto