日本軍と全く異なる中国軍の実態と村上春樹の歴史観の歪み(続章)
本章は阿羅健一氏による村上春樹『騎士団長殺し』批判の続編で、中国軍の便衣兵の実態、捕虜処刑の国際法上の位置付け、徴兵制度に関する誤解、昭和12〜13年の日本社会の実情、そして村上作品に散見される歴史誤認を詳細に指摘する。日本軍と中国軍の根本的な違いを無視した村上の描写が、無知と歪曲に基づく虚構であることを明らかにし、歴史観の危険な偏向を警告する内容である。
日本軍と全く違った中国軍
村上春樹はこんなことも書いている。
父親は戦場体験についてほとんど語ることがなかったが、あることは語っている。
配属された輜重部隊で捕虜処刑が行われ、そのとき中国兵は怖がりもせず、目を閉じて静かに座っており、見上げた態度だった、という。
その光景は父親にトラウマとなっただけでなく、「軍刀で人の首がはねられる残忍な光景は、言うまでもなく幼い僕の心に強烈に焼きつけられ」と村上春樹は書く。
しかし、捕虜の処刑は理由があって行われるもので、なぜ処刑されたか説明されなければ批判にならない。
中国軍のなかには軍服の下に便衣をまとっている兵かおり、戦いに敗れるとすぐ便衣となる。
最初から便衣で戦う便衣隊もいる。
日本軍とまったく違う。
彼らは国際法による捕虜の待遇は受けられず、処断されることがある。
無抵抗な捕虜を殺すことは国際法違反だと村上春樹は非難するが、作為的な偽善でしかない。
『騎士団長殺し』に描かれるピアニストの継彦は、捕虜殺害を命ぜられ、心の傷を負い、帰国すると手首を切り自殺する。
残酷な殺害の様子がリアルに記述され、絵画「騎士団長殺し」の重要な要素となっているが、一方的につくりあげた偽善からなっている。
無知や歪曲はこれだけでない。
村上春樹の父親は昭和13年8月に事務上の手違いにより学業途中で徴兵されたとされているが、市町村長が徴兵適齢者を調査して壮丁名簿を作成し、それをもとに徴兵検介が行われ、学業中のものは徴兵猶予される。
徴兵官が徴兵を行うから、父親のようなことが起こることはない。
当時は徴兵検査を受けた2割ほどしか徴兵されていないから、それを考えても学業途中の徴兵はありえない。
父親が初めて召集されたとき1年で除隊するが、村上春樹は「当時、徴兵を受けた現役兵の在営期間は2年だが、父の場合はなぜか1年で兵役を終えている。どうしてなのか、その理由は僕にはわからない」と書く。
第16師団は昭和14年8月に復員し、召集解除となり、1年で終わった兵隊もいた。
連隊史に記述され、兵士の日記にも記載され、福知山連隊について書くくらいの人ならだれでも知っていることである。
歪曲は以前の「ねじまき鳥クロニクル」にも見られた。
「戦争の影が日いちにちとその濃さを増していることがわかりました。昭和12、3年というのはそういう暗い時代だったのです」と書く。
昭和12年12月に南京が陥落したとき、俳優の古川緑波は名古屋で舞台に立っており、昼食のため入った洋食屋で、メニューにあった南京陥落スープを注文する。
運ばれてきたのは、かぽちゃのポタージュにチーズトーストが添えてあり、南京陥落という名前をつけただけのことだろうと思ったが、かぼちゃはナンキン、チーズは乾酪、「うまい。南京陥落に違いない。洒落たチーフがいたもんだ」と感心する。
南京陥落をこのようにとらえる明るい時代であった。
昭和13年2月、東京の盛り場の喫茶店などにいた2000人の学生が一斉検挙された。
事変から半年余りが経ち非常時を認識しないものが多いからというのだが、2000人の学生が浮かれていたくらい明るかった。
10月の漢囗攻略には500人もの記者、通信員、放送局、評論家が従軍し、南京攻略の数倍の人数で、陥落には南京より沸いた。
昭和12年や十13年は、事変が膠着するまえ、連戦連勝で社会は明るかった。
そもそも昭和12年と13年は世界大恐慌からようやく立ちなおり、戦前でもっとも経済繁栄した年である。
村上春樹の歴史観は「日本人には自分たちが加害者でもあったという発想が基本的に希薄」「中国人も、韓国・朝鮮の人も怒ります」というもので、その歴史観に合わせるため、昭和12年や13年を暗い時代と歪曲した。
無知をあげれば『騎士団長殺し』にはこんな記述が続出する。
「掌を調べて、ごつごつとしたタコができていればそれは農夫だ。場合によっては放してやる。しかし柔らかな手をしているものがいれば、軍服を脱ぎ捨てて市民に紛れて逃れようとしている正規兵だと見なし、問答無用で殺してしまう」
市民と便衣兵を見分ける方法を書いているのだが、これは反対であろう。
日本兵は、兵隊が銃を持てば手にタコができるので、手にタコがあるものを兵隊とみなした。
また、「1938年、つまり昭和13年にいったい何か起こっただろう?ヨーロッパではスペイン内乱が激化している。ドイツのコンドル軍団がゲルニカに無差別爆撃をくわえたのもたしかその頃だ」という記述がある。
これも違う。
スペイン内乱は昭和11年に始まり、ゲルニカ空爆が行われたのは昭和12年4月、その年のうちにピカソはゲルニカ空爆を画材として大壁画を描いた。
こういった例はいくらでも続く。
この稿続く。