誤解された「創氏改名」――韓国系米国人が遺した証言が映す日本統治の実像

本稿は、産経新聞(2024年12月3日掲載)の論考を基に、日本統治下朝鮮を生きた韓国系米国人L氏の証言を通して、「創氏改名」の実態、儒教社会の構造的問題、日本統治による治安・法治改革の実像を検証する。創氏改名が一律の強制ではなかった事実、法治国家化の意義、現代にも残る儒教的価値観の影響を、一次証言から読み解く。

以下は、誤解されている「創氏改名」と題して12/3の産経新聞に掲載されていた論文である。


韓国系米国人の「遺言」

今年3月、90代半ばにして亡くなった韓国系米国人、L氏のことを前回(11月月19日付)に続いて書きたい。  
日本統治下の朝鮮で生まれ、終戦時、旧制中学生(10代半ば)だったL氏は、日本による朝鮮統治の事実を身をもって知る「生き証人」だったと言っていい。
知識人であった祖父や父からも、統治時代の実情を聞いていた。  
戦後80年、当時を知らない一部の人々によって「事実ではないこと」が喧伝され、”上書き”を繰り返されて定着してしまう悪循環…。  
L氏が決して「親日」 一辺倒ではなく、日本の統治に対して「是々非々の評価」をしていたことは、前回も書いた。
彼の証言はこの問題を「あきらめ」 「放置してきた」、現代日本人への叱咤激励であったと私は思う。 
日本人と同じ扱いに 
L氏が、誤解が多いとして 挙げたものに「創氏改名」 (昭和15年実施)がある。 
「大事な先祖代々の姓名を取り上げられた」などとして、 一部で、いまなお”悪名高い”この制度の「実態」は案外、知られていない。  
実際には、朝鮮人に多い、金、朴、李などの「姓」 (※一族を表す)と「本貫」 (一族始祖の出身地)は、戸籍に残したまま、日本風の山田、田中といった「氏」 (※家族を表す)を新たに創設する。
ただし、定められた期間中に「創氏」を届け出なかった場合、従来の「姓」がそのまま「氏」となった。
世界的なダンサーとして大人気を集めた崔承喜も、朝鮮人として最高位の日本陸軍中将になった洪思翊も日本風の創氏は行っていない。
一般人とは異なる特別な地位にいた人物とはいえ、元の『姓』をそのまま『氏』として使うことができた例だ。
「改名」は、もとより手数料を支払って行う任意制である。 
この制度を、この時期に日本側が実施した背景には、 「戦時下」 (12年に日中戦争勃発)において、朝鮮伝統の血族中心主義↓日本風の家族化を図り「内鮮一体」のスローガンによる同化政策をより推進する目的があった。
一方で、日本側にも治安面から、導入に「反対」する声が以前からあったのである。
朝鮮人側の受け止め方はどうだったか? 無論、「歓迎」ばかりではなかったろう。
特に伝統的な儒教的価値観において「姓」を一族の誇りにしてきた名門家にとっては″いらぬおせっかい″だったかもしれない。 
L氏はこう言う。「強い拒否感を示した人もいたけれど、全体の2割くらいだったと私は思いますね。(漢字3文字が多い)従来の朝鮮人の姓名はもともと中国風をまねたものでした。それゆえ、満州へ渡った朝鮮人などには 『日本人と同じ扱い』を求め、『差別がなくなる』と期待した人も多かった」  
「強制性」についてはどうか? 実態や法的には前述の通りであったとしても、事実上、当局が強力に日本風の創氏を「押し付けた」のではないか、と反論する向きもあるだろう。
戦時下の政策であったことを踏まえて、これも全否定はしないが、L氏の指摘を見るまでもなく、先の事情などから、「実施を望む声もあったこと」も知っておくべきではないか。 
結局、日本式の創氏をした朝鮮人は約8割である。
当時、国民(小)学生だったL氏は「一族を含めて、ごく自然に受け止めた、と記憶している」と話した。 
儒教の「悪しき面」 
L氏は、日韓併合(明治43年)前の朝鮮半島の状況について、権力者が政争を繰り返し、世が乱れていたことを度々指摘していた。
これは、儒教の「悪しき面」の影響も少なくなかったと思う。
「儒教」を国教のごとく、あがめていた李朝時代の約500年間、朝鮮半島は、その理念によって支配されてきたと言っていい。 「公」よりも、一族の繁栄を目指す「私」が優先された。
儒学を極め、政治を支配した文人官僚が至上とされ、「武」や「商」「技術」は軽んじられた。
過度の一族支配は政争を生み、政治腐敗が進んで、、大衆は搾取や圧政に苦しんだ。
儒教的価値観で低く見られたがゆえに軍事力や技術力、経済力は育たず、近代に入ると、朝鮮は列強の”草刈り場”になってしまう。朝鮮の近代化とは一面で、「儒教の呪縛」を解くことにあったといえるかもしれない。 
呪縛は、日本統治時代になっても、簡単には消えなかった。
京城帝国大学で朝鮮人学生の人気を独占したのは「法科」であり、彼らは卒業後、それが「狭い道」と知りながらも高級官僚の道を目指すことを至上とした。李朝時代と一緒である。
同じ「外地」でも台北帝国大学(台湾)で、より実用的な医学部志望者が多かったのとは対照的だ。 
日本統治時代どころか、「公」よりも「私」(一族)を大事にする思想が現代の朝鮮半島に残っているのは周知の通り。
「儒教の呪縛」はそれくらい手ごわい。 
法治国家を目指し  
「是々非々」のL氏が評価した日本統治時代の成果のひとつに「法治の実現」 「治安の改善」があった。
日韓併合前の朝鮮は王や一族ら権力者猖よる「人治」だったと言ってもいい。
近代的な司法や行政制度はなく、 「権力者のための」恣意的な裁きや課税などがまかり通っていたのである。 
こうした状況の中で、日本は、警察制度を整備して、乱れていた治安を回復させた。
また、三審制による近代的な司法制度を整えた。高等法院 (京城=現・韓国ソウル)―覆審法院(京城・平壌・大邱)ー地方法院の三審制を敷き、それぞれに対応する検事局が設けられたのである。 
「法治」社会の整備に貢献した人物の中には”狭き門”をくぐり抜けた「キャリア組」の朝鮮人検事もいたし、朝鮮人警察官の数も、少なくはなかった。
「司法」 「治安」で近代化を図ろうとした日本統治の「改革」はもっと評価されていい。  
最後のメール 
L氏から「最後のメール」が私に届いたのは、令和6年6月のことだ。 
旧制中学時代の日本人旧友の思い出を懐かしみ、同窓会が解散してしまったことを残念がっていた。
そして、こう締めくくっている。「日本による朝鮮統治の実態に関し、説明させていただいたのは相当”昔”のことになりました。(略)足腰がだいぶ弱くなり、今年から自動車運転は控えておりますが、記憶力は”鮮明”です。では御機嫌よう~、さようなら~」
(編集委員 喜多由浩)

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