「“釈明史観”と原爆・モーゲンソー・プラン――日本の戦史研究タコツボ化への告発」― 月刊WiLL1月号対談「日本の戦史研究はタコツボ化してる」より ―
月刊WiLL1月号対談「日本の戦史研究はタコツボ化してる」からの本稿は、石破茂前首相の「戦後八十年談話」や波多野澄雄『日本終戦史1944–1945』に代表される“釈明史観”を批判し、日本の戦史研究が日本語資料と対日責任論に偏った「タコツボ状態」に陥っている危険性を指摘する。ソ連の対日侵攻が事前に把握されていた事実、広田弘毅A級戦犯指定におけるソ連工作、原爆投下の「人命救済」プロパガンダ、チャーチルの責任、バターン死の行進の創作性、ドイツ占領をめぐるモーゲンソー・プランなど、欧米・ソ連・中国の一次資料に基づく具体例を通じ、日本だけを悪とする片務的な戦争像を乗り越え、世界史的視野から大戦の全体像を再構成する必要性を訴える必読の対談である。
月刊WiLL1月号の対談「日本の戦史研究はタコツボ化してる」では、日本近現代史研究家・渡辺惣樹と福井義高教授が、石破茂前首相の「戦後八十年談話」や波多野澄雄『日本終戦史1944–1945』を典型とする「釈明史観」を厳しく批判する。
アメリカの対日政策を正当化するための“言い訳史観”では、欧州戦線やソ連の動向、原爆投下決定過程、チャーチルの責任、モーゲンソー・プランといった国際的文脈がほとんど検討されず、日本資料だけを読み込む「タコツボ」状態に陥ると指摘。
また、ソ連の対日侵攻が日本側には把握されていた事実、東京裁判における広田弘毅A級戦犯指定のソ連工作、米英による無差別爆撃・捕虜虐待・ドイツへの苛烈な占領政策、バターン死の行進と原爆投下をめぐるプロパガンダ性などを具体的史料から掘り起こし、日本の戦争像がいかに片務的に描かれてきたかを明らかにする。
日本の戦史研究が欧米・ソ連・中国の一次資料と最新研究を総合し、「日本が悪い」で終わらない大戦の全体像を再構成する必要性を訴える、世界的にも必読の問題提起となっている。
以下は月刊誌Will1月号に「日本の戦史研究はタコツボ化してる」と題して掲載されている日本近現代史研究家・渡辺惣樹と青山学院大学教授福井義高の対談特集からである。
日本国民のみならず世界中の人たちが必読の重要な記事である。
日本の資料だけを読むから戦争の全体像が見えなくなる
″釈明史観”のケッサク
渡辺
石破茂前首相の「戦後八十年談話」、結局、所感でしたね。中身は到底評価できません。
日本が一方的に悪いという戦後正統史観に終始。福井先生と本誌(2025年11月号)でも話しましたが、日本が良かろうが悪かろうが、当時も今も日本の都合で世界は動いていない。
福井
戦争は相手があってはじめて発生します。
先の大戦も日本がどう振る舞おうとも、巻き込まれた可能性が高い。
戦争が起こるかどうかは大国次第です。
渡辺
日本は米国に徹底的に苛められました。
フランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)は、ニューディール政策の失敗を糊塗するため、戦時経済で復興しようと目論んだ。
ところが、米国民の80%以上が中立・非介入の立場でした。
そこで、FDRは「裏口からの参戦」を考えたのです。
日本を苛め抜いて米国を攻撃させようとし、そしてその目論見は成功した……。
戦後80年ということもあり、石破氏のような歴史観に基づいた書籍がたくさん刊行されました。
保阪正康氏『なぜ日本人は間違えたのか』(新潮新書)、加藤陽子氏『となりの史学』(毎日新聞出版)……。
特に筑波大学名誉教授の波多野澄雄氏『日本終戦史 1944-1945』(中公新書、以下『終戦史』)は、素晴らしくよく書けた”釈明史観”のケッサクです。
もちろん皮肉を込めてですが。
福井
釈明史観とは?
渡辺
米国側だけの視点で書かれた歴史学という意味です。
米国正統派の歴史家の見方を見事に代弁しています。
要するに、FDRのあまりにひどい対日外交をかばうための釈明ばかりでつづられた史観ということです。
福井
先の大戦の主たる戦線は欧州でした。
ところが、『終戦史』では欧州戦線がどのような状況にあったのか、ほとんど分析されていません。
渡辺
だから、そういう意味でも日本的釈明史観のケッサクなのです。
巻末の〈参考文献・資料一覧〉を見てもわかるように、海外の資料の数がとても少ない。
ナスカの地上絵の全体像を見るためには、どれだけ地上を這いずり回っても無理です。
高いところから見る必要がある。
それと同じで先の大戦において、日本の資料だけを読むのは地上を這いずり回ることと同じです。
米国や英国、ドイツ、ロシアの文献を渉猟する必要があります。
たとえば、ハーバート・フーバーの回顧録『裏切られた自由』(日本語訳は草思社から。訳・渡辺惣樹)や『ヴェノナ文書』がない。
最新の研究書もほとんど取り上げられていません。
福井
そんな中、なぜか歴史書とは到底いえない『Japan’s Holocaust(ジャパンズ・ホロコースト)」が入っています。
渡辺
不可解ですね。
『終戦史』では、その書籍の内容についてまったく触れられていません。
一体何を参考にしたのでしょうか。
ソ連侵攻をわかっていた日本
福井
その一方で、日本語の資料は充実しており、記述も正確です。
『終戦史』に「不延長通告(編集部注⁑ソ連による中立条約延長の拒否)自体は大きな衝撃ではなかったが、四月に入って、その兵備を欧州から極東に移動させつつあるという確かな情報に接していた参謀本部としては、ソ連参戦はもはや既定路線だった」とあります。
この記述のように、ソ連が攻めてくることは、日本はわかっていました。
突然、攻められて、日本はあたふたしたと言われることもありますが、それは誤りです。
ちなみに「確かな情報」のひとつは、シベリア鉄道沿線のチタにあった満洲国領事館からの西から東への鉄道軍事輸送の報告です。
実はソ連と満洲国はお互い領事館を設置しており、一連の事実は領事館に外交官として偽名で派遣されていた中野学校出身の原田統吉少佐が戦後、証言しています。
『終戦史』が参考文献にあげている『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌』にも記載されています。
渡辺
米在住の歴史家、長谷川毅氏の資料を取り上げているのは、私も評価します。
福井
ソ連に関連してですが、『終戦史』では、南京事件当時、首相だった広田弘毅についても言及されています。
実は、広田を「A級戦犯に入れろ」と強く主張したのはソ連です。
広田が駐ソ大使だったとき、モスクワに来た陸軍少将との会談でソ連に対して好戦的な発言をしたと記されたメモのコピーが東京裁判に提出されました。
広田の弁護人ジョージ・ヤマオカは、広田はそんなメモのことは知らないと反論します。
しかし、当時の駐在武官で裁判に証人として出廷した笠原幸雄中将は「メモが広田の発言を正確に記したかどうかは断言できないけれども、自分が書いたものだ」と認めています。
モスクワの日本大使館にはソ連のスパイがおり、金庫にしまってあったメモを写真に撮り、持ち出していたのです。
ソ連はこのメモを、自らの対日侵攻を正当化する、日本の対ソ侵略意図の証拠としたのです。
ところが、日本ではこの話はほとんど知られていません。
『終戦史』でも取り上げられていません。
原爆投下の言い訳
渡辺
『終戦史』は戦争の終わらせ方に関して、「日本が悪い」で終始しています。
始まりもそうですが、終わらせるにしても、やはり相手があってはじめて実現できることです。
その視点が欠けている。
福井
『終戦史』で一番問題と感じたのが、原爆投下の是非です。
なぜ原爆が投下されたのか、その理由を国務長官・陸軍長官などを務めたヘンリー・スティムソンと、当時彼の部下で、のちにハーバード大教授、そしてケネディ、ジョンソン政権で大統領補佐官となったマクジョージ・バンディとの共著『On Active Service in Peace of War』(1947年/邦題『ヘンリー・スティムソン回顧録』国書刊行会)に依拠しています。
スティムソンは共和党員でしたが、FDR及びトルーマン政権でも陸軍長官を務めました。
渡辺
超党派の受けが良かった。
福井
そこでスティムソンを前面に立て、考え出された言い訳が「人命を救うため」であり、苦渋の決断であったというストーリーなのです。
要するにプロパガンダです。
『終戦史』では、それが事実であるとの前提で書かれています。
渡辺
それこそが″釈明史観”です。
福井
しかし、事実は違います。
原爆投下による甚大な被害を目の当たりにし、米国内で投下への疑問が生じます。
そこで「どのような言い訳をすべきか」について、国家プロジェクトとして綿密な検討が行われます。
その成果がスティムソンとバンディの一連の著作なのです。
ただ、『終戦史』は正しいことも書いてある。
「いずれにせよ、20億ドルもの巨費を投じた原爆開発は、完成後の使用は当初から自明のものであった」とありますが、これこそが本当の理由です。
渡辺
目標選定委員会で議論されていたことにも注目すべきです。
投下は必ずしも自明であったわけではありません。
少数派でしたが、反対者もいました。
私の著作『真珠湾と原爆日米戦争を望んだのは誰か』(ワック)でも触れていますが、委員会のメンバーに海軍省次官のラルフ・バードが参加していました。
彼は投下しないで済む方法もある、投下する場合も警告すべきだと、強く主張しています。
原爆を使用しない議論は活発だったのではないでしょうか。
福井
軍内にはありました。
たとえば、のちの大統領で欧州戦線の連合国軍総司令官だったドワイト・アイゼンハワーは投下に反対だった。
しかし、トルーマン大統領やスティムソン陸軍長官など政権首脳にとって投下は自明だったのです。
渡辺
さらに投下方法も重要でした。
「山間部にするべきではないか」などの議論もあった。
福井
ええ、しかし、政権首脳レベルでは真剣に議論されてはいません。
完成すれば使用することは、トルーマンの判断以前に決められており、投下することは当然として、”どの都市に投下するか”が主要な論点だったと、スタンフォード大学のバートン・バーンスタイン名誉教授は書いています。
原爆投下前に、その是非について侃侃諤諤(かんかんがくがく)の議論が交わされたと言われるようになりましたが、それは戦後に広められた″プロパガンダ”でしよう。
原爆は無差別爆撃の延長です。
米国でも原爆投下反対論者に対して、無差別爆撃は許されるのに、なぜ、原爆はダメなのかという、ある意味効果的な反論がありました。
無差別爆撃自体、英国が対ドイツ戦で始めたことであり、米軍が日本に対して始めたことではありません。
無差別爆撃は対ドイツを念頭に、イギリスでは戦間期から、空軍高官(文官)の戦争法研究者ジェームズ・スペイトらによって正当化の準備が始まっていました。
責任転嫁したチャーチル
渡辺
歴史家のマイケル・S・ネイベルク著『ポツダム』(未邦訳)には、ポツダムでのトルーマンとチャーチルの会話が描かれています。
二人は直接その話を回顧録などで記していませんが、周辺の人物が記録として残していました。
トルーマンは原爆投下に関して最後まで悩んでいた。
最後に決意させたのはチャーチルだったのです。
チャーチルは「日本だって真珠湾を無警告で攻撃したじゃないか」と言った。
トルーマンはそれで覚悟が決まりました。
福井
原爆投下の背中を押したのがチャーチルだったわけですか。
渡辺
1943年8月に実施された第一次ケベック会談で、米英の原爆開発計画の覚書が交わされましたが、「第三国に使用する場合は両国の合意が必要」と明記されました。
つまり、チャーチルの合意がなければ、米国は日本に対して原爆を投下できなかったのです。
福井
トルーマンは死ぬまで「私の責任で投下した」として、言い訳しませんでした。
ところが、対独無差別爆撃を主導したチャーチルは戦後、空軍に責任転嫁します。
渡辺
しかし、『終戦史』にはチャーチルについてはまったく言及されていません。
福井
とにかく米国が日本とだけ戦争しているかのようなスタイルで書かれています。
主戦場であった欧州の動向をなおざりにする、日本の戦争に関する文献の典型例でしょう。
玉砕戦法を決行したワケ
渡辺
原爆投下に使用された理由の一つに、「バターン死の行進」もあげられます。
西洋人による捕虜の扱い方を知るには最適の例です。
欧州の戦いでは、捕虜など取らないのが基本です。
少数ならまだしも、大量の捕虜を取ると、たちまち兵士の食料が底をついてしまう。
実際に、エジプト遠征したナポレオンの軍は、投降するアラブ人をすべて殺しました。
それが彼らの戦場での常識です。
ところが、バターンでは、日本軍は捕虜に対して危害を加えず、むしろ、兵士の中には自分に配給された食料を分け与えた人もいました。
それは西洋人には考えられないことだった。
そこで米国は「バターン死の行進」を創作した。
フィリピン戦線で捕虜にした米軍兵士を捕虜収容所に移動させる行軍が非道だと言いがかりをつけたのです。
そんな野蛮な行為をした日本に原爆投下したのは当然だと言い出した。
福井
日本軍の玉砕戦法も決して、人命軽視の精神論に基づくだけではありません。
米国相手に投降しても捕虜にはなれず、戦闘を止めれば、皆殺しにされることがわかっていたのです。
『終戦史』では「特攻作戦は戦果の効率性という観点からは割に会わない戦術」としていますが、米軍は戦後、効率的な作戦だったと評価しています。
自爆攻撃を扱った『Dying to Win』で、シカゴ大のロバート・ペイプ教授は同様の評価を下しています。
特攻による戦死者は数1000人です。
他の戦場での餓死者も含む戦死者に比べれば、数は多くない。
渡辺
国際人道法では降伏した兵士は、すべて受け入れると決められています。
ところが、西洋人は勝手に定義を変えてしまう。
たとえば、ドイツに対して、米英は「自ら勝手に軍服を脱いで投降してきた兵士には適用しない」としました。
結局、投降したドイツ兵の多くがまともに食料も与えられず餓死しています。
福井
基本的に捕虜は助けなければならないけれど、軍事的な考慮から捕虜を認めないことが合法となることもあると解釈されていました。
「戦数」(Kriegsrason)という考え方です。
日本では、京大教授だった田岡良一の『戦争法の基本問題』で詳しく扱われています。
というのも、激戦の中、敵国兵士が大量に投降してきたら、戦闘遂行の大きな妨げとなります。
その場合は捕虜を取ることは軍事的合理性に大きく反します。
しかし、日米の間で、そこまでの激戦があったのでしょうか。
米軍は対日戦で捕虜は取らない、つまり、皆殺しにする方針でしたが、米国内でも異を唱える人物がいました。
たとえば、飛行家のチャールズ・リンドバーグは自身の日記に「米軍の日本兵に対する扱いはひどすぎる」と厳しく批判しています。
渡辺
リンドバーグは自ら志願して太平洋戦線に参加していましたから、その実態をよく見ていたのでしょう。
日本への非道もさることながら、米英によるドイツへの非道は日本のそれをはるかに上回っていました。
福井
ええ、だから先の大戦において人種差別はあまり関係ありません。
アングロサクソンはドイツ人と一番近い関係にありながら、実にひどい扱いをしています。
モーゲンンソー・プランの恐怖
渡辺
ドイツ人が今、なぜ卑屈になったのかといえば、卑屈にならざるを得ないほどに、ドイツに対して凄まじい非道が行われたからです。
ウッドロー・ウィルソンが国際連盟を立ち上げる際、人種差別理論を前文に入れることを反対し、全会一致でなければダメだと主張しました。
確かにその当時、アジア人に対するひどい人種差別も横行していた。
しかし、先の大戦においては、ほとんど関係ないと見たほうがいい。
福井
連合国軍によるドイツへの扱いこそが、日本が戦争をやめられなかった理由でもある。
財務長官ヘンリー・モーゲンソーによって立案されたドイツ占領計画「モーゲンソー・プラン」では、ドイツの重工業を全て解体あるいは破壊し、生きていくうえで最低限の生活を維持するだけの農業国にすることになっていました。
渡辺
まさにローマによるカルタゴの支配と同じです。
カルタゴに勝利したローマは、カルタヘナなど植民地の没収・交戦権の放棄・軍の解除と軍艦の焼却・膨大な賠償金の支払いを要求しました。
さらに、その調印が行われるまで、ローマ軍の略奪・強姦を放置したのです。
最終的にはローマはカルタゴの富を奪い、王侯貴族は皆殺し、住民は奴隷に叩き売って、土地には塩をまいて草木も生えないようにしました。
いわゆる「カルタゴの平和」です。
それと同じことがドイツや日本で行われようとしていた。
もちろん塩までまいたというのは後世の誇張でしょうが。
福井
ドイツはモーゲンソー・プランのために、最後まで戦わざるを得なくなってしまったともいえます。
モーゲンソー・プランについては米国内でも批判がありました。
「ハルノート」で有名な国務長官のコーデル・ハルは反対していました。
渡辺
米陸軍はそれとは別にドイツ占領計画を立案していました。
ドイッエ業を完全に破壊するような残酷なものではなかった。
しかし、モーゲンソーと財務次官補のハリー・ホワイトが英国にあった米陸軍司令部を訪問し、それをひっくり返しました。
「生ぬるい」という感情です。
モーゲンソーとホワイトの恨みを極限までに出したものです。
福井
政略家のアイゼンハワーと異なり、根っからの軍人だったジョージ・パットン将軍も懲罰的なドイツ占領政策に強硬に反対していました。
この政策はあまりにひどいと、退役後は大々的に訴えるつもりでした。
ところが、パットンは不可解な事故で亡くなります。
米国では暗殺されたとの見方もあります。
この稿続く。