「渋沢栄一」〈Ⅰ〉〈Ⅱ〉 鹿島 茂著 日本経済新聞4月10日読書欄から。
評者:日本大学教授 寺西重郎 黒字化は芥川。
近代日本に株式会社制度を紹介し、生涯にわたって500もの大企業を起こした日本資本主義の父、渋沢栄一の、仏文学者の手になる伝記である。本書の際立つ特色は、渋沢の性格、家庭環境、人生経験などの個人的特性からその思想形成と経済社会への貢献を検討するという独特のアプローチにある。上下二巻にわたって丹念に調べ上げられたエピソードは実に多面的かつ多彩である。
家業、藍玉商を手伝った少年期の経験、討幕運動の挫折、動乱の京都行き、徳川慶喜との出会い、その弟君に随行してのパリ万博での見聞、大蔵官僚としての活躍、多数の銀行や企業の立ち上げ、商法講習所の設立、財界総理としての栄達……。これらはいずれもよく知られた話だが、そうした話題を取り上げるにあたって、新撰組の土方歳三との関係、パリまでの船旅での洋食経験、盟友でもある従兄、渋沢喜作の投機癖などの逸話が幅広く渉猟・紹介されており、著者の渋沢への思い入れが並々ではないことに気づかされる。
個人的特性から思想形成を検討
著者の資料的吟味は渋沢の家族生活、感情生活にまで及ぶ。艶福家としての遍歴、子女の婚姻、邸宅の有様、財産継承など、その筆はとどまるところがない。さらに、晩年の渋沢についても、親米家としての側面があり、南満州鉄道建設に当たって米国資本の導入を主張したという重要な事実が指摘されている。
個々のエピソードについても、その背景に関してまで行き届いた説明が付されており、歴史に不慣れな読者でも戸惑うことはない。従来の経済人に代わって、個人行動に経済学のミクロ的基礎を探ろうとしている最近流行の行動経済学などにとっても示唆深い書物といえよう。
渋沢が論語と算盤の両立を説いたことは、よく知られているが、生来、彼が相場勘を持ち、投機にも関心を持っていたにもかかわらず、彼が投機行動に走らなかった背景に儒教道徳に基づく自制心があったという解釈が斬新で、評者には特に興味深かった。彼の産業主義的発想の影にサンシモン主義の影響を見ようとする部分など、異論のある部分もあるが、渋沢を論じるには外せない一冊となった。