パウル・クレー…4月17日日経新聞から。

絵の道を選んだ音楽家 画面の上 鳴り響く調べ

画面にあふれる物語性や詩情で多くの愛好者を持つスイス生まれの画家、パウルークレー(1879~1940年)。
多様な作風の根幹を流れるのが「音楽」だ。自身プロオーケストラに入るほど腕達者なバイオリニストだったが、ある日、絵の道に転向を図る。

クレーはプロオーケストラで弾くほどバイオリンが達者だった。上の写真はミュンヘンの画塾で室内楽を演奏しているところ(右端がクレー)。演奏家を断念し、絵の道に進んでしばらくはピアノを教えていた妻リリー(左の写真面)の収入で生活していた
 
…前略。

クレーの絵画に「音楽」が詰まっていることをダーベレイさんに教えたのは、作曲家として師匠の師匠にあたるピエール・ブーレーズの著書だったそうだ。世界的な指揮者としても知られるブーレーズがクレーの絵画に興味を持ったのは、第2次大戦後まもなくだった。89年の著作「クレーの絵と音楽」(邦訳は筑摩書房、94年刊、笠羽映子訳)がダーペレイさんを啓発した1冊だ。その中にある印象的な言葉の一つを紹介しよう。
  
「これを読めば、クレーは最高の作曲教師だということが分かるよ」
 
美術教師としてバウハウスで行ったクレーの講義録「造形思考」について、ある作曲家がブーレーズに語った言葉だという。
 
クレーがプロのバイオリニストだったことは、つとに知られている。父親のハンスはスイスでも有名な音楽教育者、母親は声楽家で、妻のリリーも優秀なピアノ教師だった。バイオリンを習い始めたのが7歳だったというのは、英才教育盛んな現代からみると

少々遅めに感じられる。だが、11歳の時には地元のプロオーケストラ、ペルン市管弦楽団の非常勤団員になったというのだから、よほど才能があったのだろう。父親はクレーにバイオリニストとしての将来を嘱望し、本人も進路についてはかなり悩んだようだ。
  
何をしていても音楽が頭から離れない。そんなクレーの頭の中を見せてくれるのが、高校生時代の幾何学のノートである。ページの真ん中より少し右上に、「ソソソミーと書かれた五線譜の落書きがある。ベートーベンの交響曲第5番冒頭の「運命のテーマ」である。その真上に描かれた人物は、ベートーベンその人にほかならない。
  
ベルンのパウルークレー・センターではクレーがいつどんな場所で何の曲を弾いたかを調べてデータペースにしている。
  
同センター研究員の奥田修さんによると「画架を譜面台代わりにして演奏したのは、シューベルトの弦楽五重奏曲だった。場所はミュンヘンの画塾のアトリエです。絵の道に進んでからも、クレーはしばしばバイオリンを弾いていました」という。
 
画家を目指したクレーがミュンヘンの美術学校に合格したのは1900年、21歳の頃。亡くなる5年ほど前、つまり55歳頃まではバイオリンを弾いていたことが分かっているという。クレーはほぼ終生、音楽とともに生きていたのである。

「襲われた場所」

グロピウスの招きでドイツ・ヴァイマールのバウハウスに赴き、美術教師となった翌年の作品。「バウハウスで同僚だったカンディンスキーが色彩をコントラストで表現したのに対し、クレーの色彩は階調表現に特色がある」と後藤文子さん

…後略。

文 小川敦生

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