「トクヴィルの憂鬱 フランス・ロマン主義と〈世代〉の誕生」…朝日新聞2月26日13面より

高山裕二〈著〉
 平衡を踏みにじる群衆の暴政  評・中島岳志 北海道大学准教授・アジア政治
革命とナポレオン専制を経た19世紀前半のフランス。身分制から解放された「新しい社会」には、自分が何者でもないという不安に苛まれる「新しい世代」が誕生した。
社会的拘束から自由になり、個人として偉大な事業を成し遂げたいという野心を持つ一方で、彼らは明確な存在根拠を失い、平準化する社会の中で孤独感と恐怖に苦しんだ。トクヴィルは、新しい世代の苦悩を体現する人物だった。彼は「全般的な懐疑」の念を有し、不信を深めた。
彼は人間の不完全性を自覚し、理性では掌握できない精神的な次元を人間が有していると考えた。トクヴィルは「絶対や完全」を根本から疑った。しかし、「見失われる恐怖」にとりつかれ、絶対を熱烈に探求した。彼は「存在しないと自覚しながらそれを渇望する」という矛盾を生きなければならなかった。
この逆説は、確信の持てない絶対の存在を、存在するかのように「仮構する」態度へとつながった。彼は、理性的な思考を突き詰めた果てに、理性の決定的な限界を見いだした。そして、この理性の働きの最後に「理性を超えるものが無限にある」という認識が開かれた。
理性の限界という認識は、その限界の外部を必然的に想起させた。だが、その無限そのものを有限の人間は掌握できない。人間は絶対を仮構するしかないのだ。この認識の先に、トクヴィルは健全な「公衆」を求めた。
理性の乱用を諌め、超越を想起しながら、平衡を保って生きる公衆の政治。そこでは自治が実践され、真の政治が現れる。しかし、この構想は多数者という「群衆」によって踏みにじられ、嫉妬と私益の暴政に圧迫された。
トクヴィルの憂鬱は再び深まり、理想は空転する。苦悩の中で「群衆よりも孤独のほうが私にとってよほどいい」と語ったトクヴィル。彼の憂鬱は、世紀を超えて「何者でもない」我々を直撃する。

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