家綱も隠元に帰依し、…ウィキペディアから。

文中黒字化は私。

隠元は中国に残してきた弟子たちには「3年後には帰国する」という約束をしていた。

来日3年目になると、中国の弟子や支援者たちから隠元の帰国を要請する手紙が多数届き、隠元本人も帰国を希望したが、元妙心寺住持の龍渓性潜(りょうけいしょうせん)をはじめとする日本側の信奉者たちは、隠元が日本に留まることを強く希望し、その旨を幕府にも働きかけている。

万治元年(1658年)、隠元は江戸へおもむき、将軍徳川家綱に拝謁している。

家綱も隠元に帰依し、翌万治3年(1660年)には幕府によって山城国宇治に土地が与えられ、隠元のために新しい寺が建てられることになった。

ここに至って隠元も日本に留まることを決意し、当初3年間の滞在で帰国するはずであったのが、結局日本に骨を埋めることとなった。

寺は故郷福州の寺と同名の黄檗山萬福寺と名付けられ、寛文元年(1661年)に開創され、造営工事は将軍や諸大名の援助を受けて延宝7年(1679年)頃にほぼ完成した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%AC%E7%A6%8F%E5%AF%BAから。

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