続き。
テレビは思想の媒体ではない
小山 梅棹さんは感性的にものを言っているんじゃなくて、かちっと論理的に構成するから出演をやめたのかなと思うんです。放送、テレビの収録では、考えていたことが時間の都合で全部とばされたりしますね。そういうのがたえられないんじゃないですか。
梅棹 とにかく、活字人間には、放送みたいな雑な仕事はたえられんな。
小山 それから、何よりも記録に残らない。無責任。だけどいまはビデオとかDVDとかがあって、本人は不満足でも、作品が残っちゃうんです。
梅棹 切ったり貼ったりの編集が、発言者の最終確認をとらないでやられてしまう。本だったら、最後の最後まで、ここ削ったり、ここは誤解を生むからちょっと足したりってできるけれど、テレビやラジオでは、それは発言者にはできない。だから責任が持てない。
小山 その発言も、梅棹さんなんかであれば、話すときには、ちゃんと予稿をつくって演説するでしょう?
梅棹 あれは思想の媒体ではないな。
小山 無礼だとかいやだとか、おれの趣味に合わんというのでは理由にならないんだ。「放送は思想の媒体ではない」。ああ、いい言葉だ。これが聞きたかったところです。新聞社でも、電話インタビューは全部断っていましたね。
梅棹 断った。これも責任が持てないから。
小山 すると梅棹さんが書いていることは、全部責任を持って書いている。
梅棹 あたりまえやろ。全部自分の言ったことを確認している。それができない媒体には責任を持てない。
小山ずいぶん厳しいなあ。
梅棹 わたしは、別な言い方したら、芸能化するのをひじょうに嫌った。
小山 芸能化というのは、同じことの繰り返しですか?
梅棹それから、ウけるということ。それがいやだった。だから芸能人とちがう。
小山そこのところの境界線をどう越えるか、それがよく言われるけれど、やっぱり梅棹さんはきちっとやった。
梅棹 わたしは厳しいよ。芸能と区別する。しかし、これはかなりむつかしい。
小山 カメラの前に立たされたら、自分のやりたくないことも要求されるでしょうね。
梅棹 そや。
小山 そうか、思想の媒体ではないと切り捨てるのは、すごいなあ。すると梅棹さん、「学術をポケットに」と、一般の人が読めるような文庫、講談社文庫にまとめて載せましたよね。それから『文明の生態史観』も中央公論ですね。全部、学界みたいに、自分の世界に閉じこもっちゃって、小さな世界で情報発信して受け取ってやっているというのは…
梅棹 そうではない。