ちょっとだけ、久し振りに、古文の世界にひたってみませう。

 

書き手不詳…ネットから抜粋。

 

「しづこころなく 花の散るらむ」の「らむ」が若い時にはよくわからない。
「らむ」は本来、推量の助動詞だから、「静心」なく花が散るのだろう、とくると、ぜひともこれはその上に、「など」(なぜ)という言葉が入らないと理屈にあわない。

 

 

この歌は、『古今集』の心ともいうようなところがあり、それだけの『万葉集』派の人々からは、凡庸単純な作として排斥されてきた。

 

 

しかし歌というものは不思議なイキモノで心を閉ざした人が読んでも、その中へは、入ってきてくれないが、先入観を持たない自由な心の人が、こだわりなく親しむと、にわかに生き生きと起ち上がってきてくれる。

 

 

友則の視線は地を雪のように埋めつくす桜の花から次第にあがって、梢に移る。そのひまも、花は散り、友則の頭上にも肩にもふりかかる「花よ。なぜそのように、しづこころなく・・・」と、ふと友則の唇に「しづこころ」という言葉が浮かびあがってきたのではあるまいか。この歌の核心は「しづこころ」という言葉だと思う。

 

 

春の日の、もの悲しきアンニュイ。それを「しづこころ」という言葉で彼は凝縮させた。そうなると、「など」は不要である。「らむ」は推量というよりも、むしろ吐息、詠嘆であろう。

 

「花の散るなり」としたら平板な叙述になって作者の美しき感傷は表現されない。ここのところはやはり、「らむ」とその詠嘆を美しくぼかして暗示している。

 

 

その上にこの歌の秘密は、「ひさかたの」の「ひ」と「ひかりのどけき」の「ひ」と「はるのひに」の「は」とハ行音が重なって耳に快くひびくところである。本当に歌は理屈ではない、とつくづく思う。友則はベテラン歌人であるから「ハ」音を活用したのは彼の技巧であって、偶然の産物ではないであろう。

 

 

作者の紀友則は紀貫之の従兄弟。『古今集』の撰者の一人であったが、その完成を見ずに没したらしい。歌人としては有名だったが、下級役人であったからその生涯の詳しいことは不明で、貫之と比べると格段に資料が少ない。

 

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