そのとき 僕は いのる。
どうぞ、観て下さい。
例えば、あの庭は一度で十分と誰もが思うはず…それで竜安寺を見誤ってしまう。竜安寺から足が遠のいてしまう…あの庭を観に行くのもしんきくさいしなぁ、と…芥川も、そうだった…この日の朝、突然、行こうと思わせたのは、その過ちに気付かせる為だったのだろう…全ては、ひかり、である。と
ここでは言いたくなかったのだが、竜安寺とは官能の世界なのである。
芥川の写真と同じなのだ…芥川の写真を観てイッテしまう人が無数にいれば、それは僕の本望である。
生とは官能であり、死とは官能を失うことだからだ。
すべては、ひかりなのである。
ジョバンニと芥川は、そう思う。 ぼくらは世界のひかりと闇を旅する人…すべてを知っているひとなのだ。
芥川の写真は官能の饗宴=いのちの饗宴なのである。
つらいいのち かなしいいのち たのしいいのち おろかないのち みにくいいのち あほうないのち
ばかないのち どうしようもないいのち おかねのさんだんだけのいのち はらだたしいいのち
おかねのさんだんに苦しめられるいのち おかねのさんだんでいきているいのち それだけのことでとくいげないのち
すべてのいのちに 今このときだけでも よろこびと ひかりがあるように そのとき ぼくは いのる。
©芥川賢治。