読者の方に、出版関係の人がいらっしゃったら、と仮定して書きます。
これまでに書いた文章を厳選しただけでも、優に、一冊の本になっているはずですが。
僕は、「文明のターンテーブル」第一章であれ、第二章であれ、三島由紀夫が、何故、あのような死に方をしたのか、と言う事についての、芥川にしか思いつかない、前代未聞の仮説を書くことにも成ると思う。
勿論、芥川の使命とは、私たちの国に、いまだに存在している本質的な病…それこそが、「失われた20年」、及び、今の、すべての原因なのですが…を、明らかにすることであって、一人、ひとりの作家や、偉人の伝記を書く様な事では、全くない。
三島由紀夫の死について書くのは…芥川には、現実的に、奇妙な接点があったからだけのこと。
僕の同級生の中に、裕福な家庭に育った友人A君がいたのです…今は、本当に、立派な経営者として、人生の掉尾を飾る時点にいますが。
彼は、当時の、普通の学生にはとても借りれない高級賃貸マンションに住んでいたのですが、そこに、僕と友人O君(彼も人には言えない家庭的な悩みを抱えていた)は、転がり込んでいたのです。
当時、このマンションの前には、江上トミさんの料理学校が在ったり、市ヶ谷駅に向かう坂道の途中には、日本一入らないと評判のパチンコ屋があった…玉入れも何もかも手で行っていた時代のこと…O君は、プロ並みの腕で、毎日、このパチンコ屋から、山ほどの洋モク(当時の舶来煙草は高かったのです)…しかも当時の高級品であるベンソン&ヘッジズ…を毎日、取って来た。
A君の机の引き出しは、この煙草で満杯状態…煙草を飲む気は全くなかった…人生逃亡中だった芥川が、スモーカーになったのは…或る日、一人で、居た時に、何気なく、この煙草を吸って見たのですね…こんなものの何が良いいんだろう、と思いながら…予想もしていなかった美味さにクラッと来た。
この坂の、ちょっと上に、自衛隊の市ヶ谷駐屯地が在ったのです。
三島由紀夫が、あの事件を起こしたのは、解決されない苦しみを抱えたままの芥川が、この地を離れて、ほどなくの事だったのです。
芥川は、全く、彼の読者ではありませんし(幾つかの作品…「午後の曳航」「金閣寺」等は、芥川の集中で読んでいますが)ましてや崇拝者でもありませんが、彼の文章だけは、認めている。
芥川の人生とは、上記の、使命としての本を書くために在ったことは、何度か、書いて来た通りです。
芥川が、使命としての本を書くために必要だった最後の作業=芥川の文体の完成=は、7年前に、突然、達成された。
人生の舞台として選択した大阪を総括するための文章を書いて、折込意見広告として、世に出した時に、それは為されたのです。
僕は、使命としての本を、かつて誰も発想し得なかった構成と、戦後、日本語で書かれたもっとも美しい文章…小学生でも読める平易な…一切の衒学的な言葉を使わない…芥川の文体として、世に出す。
この芥川の文体には、どこか三島由紀夫の文章に…僕は…彼の文章は、極めて、平易で、流れる水のようだと思っているのです…似ているものがあるのです。
全く、違う思索、全く違う人生を生きた芥川と三島なのに…だからこそ、芥川は、三島の死についての、前代未聞の答えに、突然気が付いたのだと思う。