信長公記にみる黄金の樋…ネットの労作から。
信長公記にみる黄金の樋
http://www.asahi-net.or.jp/~uw8y-kym/densetsu/densetsu_ougonnotoi.html から。
「信長公記(しんちょうこうき)」は、織田信長の家臣で、後に豊臣秀吉に仕えた太田和泉守牛一が信長の傍にあって、体験をつぶさに書き記した大書として有名で、その信頼度もすこぶる高い信長の伝記です。その信長公記には、石清水八幡宮の造営について次のようなことが書かれています。
天正7年(1579)12月10日、信長公は山崎に御座をお移しになり、翌11、12の2日間は雨天のため京都山崎の宝積寺にご滞在になった。そのとき、石清水八幡宮の内殿と外殿との間には昔から木製の樋が架かっていたが、それが朽ち腐って雨が漏り、損壊寸前であり難儀していることを信長公がお聞きになると、さっそく造営することをお決めになった。そこで、代官武田佐吉のほか、林高兵衛、長坂助一の3人を石清水八幡宮の造営奉行に任命し、「こんどは後世にまで残るように」と、「唐金(青銅)の鋳物に直し、長さ六間のところを5つの鋳物で継ぎ合わせるように」と仰せつけられた。また、「必要な費用以外に無駄な支出がないようにし、一刻も早く完成するよう念を入れて申しつける」と、命じられた。
造営にあたって信長公は、かふじ・番匠・大のこびき・葺き師・鋳物師・かわら焼きたちを召し寄せるとともに、大和の国の三輪山から材木を取り寄せ、斧始め(起工式)を天正7年(1579)12月16日午前9時ごろとした。
天正8年(1580)3月、仮遷宮があって、ほどなく社頭・神殿の屋根をふき終え、築地・楼門の工事もすみ、金ぱくでもって飾りたて、また、意奉拝の社壇には、七宝をちりばめたことから、神前は光明を増し、堂々と荘厳をきわめた。そして、5月26日に正遷宮が行われた。このことから「神は人の敬いによって威を増す」と言った。
信長は正遷宮に訪れ、武運長久と家門繁栄を祈った。また、参詣の人びとが群れ集まり、信長への尊敬の念を増した。そして、8月中旬までかかって9か月で、造営をすべて終えた。