信長ゆかりの寺院を調べていて…。妙覚寺。

妙覚寺の21世日奥(にちおく)上人と本国寺(山科の現本圀寺)の日上人は不受不施(ふじゅふせ)派の急先鋒。不受不施とは「僧は法華信徒で無い者からの布施を受けず(不受)、信徒も法華寺院以外の僧へ施さない(不施)」の意味である。

 文禄4年(1595)、秀吉から東山大仏殿落慶の大仏開眼千僧供養会を開くため、各宗に対して「供養会へ100人の僧を出仕せよ」の通達が出た。この通達に日蓮教団は受派と不受派に分裂・対立する。日奥上人・日上人は秀吉が法華信徒でないことを理由に供養会への出仕を拒否する。拒否すれば秀吉は何をするか分からないという受派寺院の対応でこの供養会は事なきを得た。しかし、これを機に日蓮教団内部で供養会への出仕当否をめぐって問題化する。

 秀吉が没し、徳川家康が実権を握っても千僧供養会は続けられており、受派は「日奥はいあまだ貴命に応じず」と家康へ訴える。慶応4年(1599)、家康は大阪城へ両者を呼び諸大名の面前で当否を対論させ、日は潮時と判断し出仕を約束した。日奥は「教えに背くことは例え国主であっても従えない」と主張。メンツを潰された家康は、日奥を対馬へ配流した。13年後、赦免された日奥は妙覚寺へ戻ることを許されたが・・・。受不施・不受不施をめぐる対立は教団全体を揺るがし、幕府は次第に不受不施派への警戒を強めた。寛永7年(1630)2月、幕府は再び両者を江戸城へ呼び対論させ、軍配を受不施派にあげると共に不受不施派を弾圧し、僧を流罪・追放している。このとき、日奥上人も再び流罪となったが、日奥はこの裁定の前に66歳の生涯を終えていた。幕府は見せしめのために、日奥の墓を掘り起こし、死体を対馬へ送ったとされている。以後、不受不施は禁教となり明治時代まで続いたという。 http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/myoukaku-ji.htm から。

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