妙覚寺、テイク2.
妙覚寺は四条大宮に創建された後、室町中期の文明15年(1483)12世日寮上人のとき、9代将軍足利義尚(よしひさ)の命で、二条通衣棚(現烏丸御池の北西に上・下妙覚町の地名が残る)に移転した。その後、日蓮宗の信仰が公武の高官や武士・富商・町衆へ浸透して隆盛を誇るようになった。天文5年(1536)、日蓮教団の巨大化を恐れた天台宗(比叡山延暦寺)の僧兵ら約6万により、京都洛中洛外の日蓮宗寺院21本山は襲われる。かくして、勢力を誇っていた日蓮宗寺院はことごとく焼き払われ、妙覚寺は堺へ逃れる。途中の鳥羽街道で貫主は流れ矢により遷化(亡くなること)している。
6年後の天文11年(1542)、日蓮宗本山の帰洛が許され、妙覚寺は天文17年(1548)、19世日饒(にちじょう)上人が旧地二条通衣棚に復興している。この頃から、妙覚寺は本能寺と共に織田信長の上洛時の宿所とされた。これは日饒上人が斉藤道三の子であったこと、信長の妻・濃姫が道三の娘であったためと考えられている。
信長は妙覚寺で千利休を茶頭とした大茶会を何度か催したという。そして、天正10年(1582)6月の上洛時、信長の嫡子信忠は妙覚寺を宿に、信長は本能寺を宿にした。この時も妙覚寺では茶会が催された。その夜(翌日の未明)重臣明智光秀軍は、本能寺の信長を襲い自害させたあと、直ぐに信忠がいる妙覚寺へ。本能寺から妙覚寺の距離は約1キロ、信忠は妙覚寺から二条殿(現烏丸御池の北西角にあった)へ向かい誠仁親王を無事退去させ、追撃してきた光秀軍と戦うが、数に勝る光秀軍に信忠も自害した。この歴史に残る「本能寺の変」により妙覚寺は焼失した。
天正18年(1590)、権力を握った豊臣秀吉の都市改革令により洛中寺院の大半は強制的に市街地の北側の寺之内(てらのうち)または東側の寺町(てらまち)へ移転させられた。このとき妙覚寺は北の寺之内へ移建され現在に至るが、天明8年(1788)天明の大火で華芳塔堂と表門を残し堂宇を焼失。現在の建物は、その後のもの。妙覚寺の北にある墓地には、狩野元信・永徳ら一門の墓、日蓮・日朗・日像・日奥らの墓がある。http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/myoukaku-ji.htm から。