それから…。
同年妻とともにカンボジアに出かけ、12月23日バンテアイ・スレイ寺院でレリーフを盗んだとして友人のルイ・シュヴァッソンとともにプノンペンで逮捕された。1924年7月プノンペンの裁判所でマルローは禁固3年、友人のルイは禁固1年半の判決を受けた。一方、無罪判決を受けた妻クララはいち早くフランスに帰国し、知識人たちに救援運動を呼びかけた。これに応じてアンドレ・ジッドやフランソワ・モーリアックらパリの知識人らが署名嘆願運動を起こし、マルローは10月にサイゴンの控訴審で執行猶予1年に減刑され、11月にフランスに帰った。彼はインドシナにおけるフランス植民地当局に極めて批判的で、1925年には再びインドシナに赴きヤング・アンナン同盟設立に助力し、新聞『鎖に繋がれたインドシナ』を創刊した。考古学への情熱からラオスへの調査旅行も行い、1927年には中国国民党とも関係をもった。