洞窟の中で空海が目にしていたのは空と海だけであったため、空海と名乗った

前章の写真の事を、昨日、同行してくれた専務に話したところ、「あれぇ、ここには確か、鴨がうずくまっていたはず…」。確かに、此処の岩陰には鴨がこちらに背を向けて、じっとうずくまっていたのです。
私は、家康殿との会話口調で、「見てみぃ、鴨も今回の天災地変を悲しみ、じっとうずくまっておるぞ」、と話したのですから。

その鴨が写っていず、この奇妙な物が映っている訳です…そばで一緒に、この写真を見ていた専務は、「お坊さんが袈裟を着て手を合わせている様に見える…」

自席に戻った専務が…「洞窟で悟りを開いた空海が見ていたものは、空と海だった…」と言った。…と。

仏道修行…ウィキペディアより。黒字強調は私
延暦12年(793年)、大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったという。
24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰(ろうごしいき)』を著して俗世の教えが真実でないことを示した(「聾瞽指帰」は、後に序文と巻末の十韻詩を改定、『三教指帰』(さんごうしいき)と改題されている)。
この時期より入唐までの空海の足取りは資料が少なく断片的で不明な点が多い。
しかし吉野の金峰山や四国の石鎚山などで山林修行を重ねると共に、幅広く仏教思想を学んだことは想像に難くない。
『大日経』を初めとする密教経典に出会ったのもこの頃と考えられている。さらに中国語や梵字・悉曇などにも手を伸ばした形跡もある。
ところでこの時期、一沙門より「虚空蔵求聞持法」を授かったことはよく知られるところである。
『三教指帰』の序文には、空海が阿波の大瀧岳や土佐の室戸岬などで求聞持法を修ましたことが記され、とくに室戸岬の御厨人窟(みくろど)で修行をしているとき、口に明星が飛び込んできたと記されている。
このとき空海は悟りを開いたといわれ、当時の御厨人窟は海岸線が今よりも上にあり、洞窟の中で空海が目にしていたのは空と海だけであったため、空海と名乗ったと伝わっている。

後略。


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