先週日曜日、読書欄の白眉は、これに尽きる。…日経・読書欄から。

女が国家を裏切るとき 菅 聡子著  評者:文筆家 千野 帽子 黒字化は芥川。
*勿論、この方は、現首相とは何にも関係ありません。

書名どおり女の行動・表現が国家を裏切る側面も取りあげているが、読後感は逆に『女が国家に加担するとき』たった。美談や文学的表現が戦争その他の国家事業に加担する危険のほうが、強く記憶に残った。

それは著者の意図だろう。著者は〈自身をとりまく日常・社会が明らかに暴力化の一途をたどっているという実感〉を持っていて、「セカイ系」と呼ばれる漫画や泣けるベストセラーにおける感傷の椀飯(おうばん)振舞を、暴力を隠蔽しつつ支えるものであると感じているのである。

本書は三部構成で、各部が「女学生、一葉、吉屋信子」という副題の構成要素に対応している。第1部では教育勅語や皇室報道のなかに、女が〈国家有用の人材〉へと仕立て上げられていく機構を読む。日清戦争にさいして負傷兵のために皇后が繃帯を作った、遊郭で働く女たちが脱脂綿を作った、といった美談報道のトーンを検証する箇所が印象深い。
 第Ⅱ・Ⅲ部では樋口一葉の和歌や吉屋信子の大人向け小説における、帝国の戦争への共振と背反を検証している。女に〈国民〉としての内面を付与する機能を明治期の和歌は負わされていた。

戦時下の吉屋作品では、登場人物の個人的な危機が国家の危機に抗する行為(皇民化)によって清算された。いわば「希望は、戦争」がそのまま美談となる構造である。〈体制への密やかな叛逆の砦〉たった少女小説『花物語』の感傷がそのままいつの間にか〈《皇国)の大義に奉仕するもの〉となった、と著者は指摘する。そういえば私も、『花物語』の文庫解説を準備中に吉屋の国策協力小説『月から来た男』を読んで、両者の連続性に拍子抜けしたという経験がある。

健康に必要な糖分が摂りようで人を死に至らしめるのに似て、文学や漫画につきものの感傷はなにかとタチの悪いことをやらかす。メディアの感傷的表現は、背後にいくらでも暴力を隠せる。共同体は感傷を消費することで自分を正当化し、暴力に加担し続ける。感傷の前で、私たちひとりひとりが暴力の主体たりうる。世論の感傷的な部分は、戦争を始める(続ける)ための燃料なのだ。

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