バルテュス、自身を語る 聞き手 アラン・ヴィルコンドレ/バルテュス 著

朝日新聞2011年3月27日(日)読書欄 評・横尾忠則 美術家 黒字化は芥川。

寡黙で寡作で、孤独と絵画とモーツァルトとロッシニエールの館と神を愛した20世紀最後の画家バルテュスが重い口を闇一いて自身を語った「唯一の回顧録」である。

 私の中でバルテュスは、長い間神秘と謎の画家として、その解明を避け続けることにむしろ歓びを抱いていた画家である。その複雑にして単純な作風だけを眺めていると、一体いつの時代のどこの国のどの様式に属する画家なのかさっぱりわからないだけに、彼を偏愛せざるを得ないのである。
 
そんなバルテュスが重い衣装を脱いで精神の裸身を晒してくれたが、自作の解説だけは見事に黙して語らない。永遠に墓場の中に沈黙を固定してしまったのは、彼が真の画家であろうとしたからだろうか。
 
彼が全く評価しない現代美術家の大半は自作の観念をペラペラ語りたがる。そんな態度を恥ずべき俗界の俗物として彼の世界から完全に排斥してしまう。
 
バルテュスの一語一句に触れる時、私の仮面が剥がされて逃げ場を失いそうになる。彼が光を求める一方、私はその光から逃れようともがき、自分が同じ土俵の画家でいることの羞恥に耐えられなくなるのである。
 
それは彼が絵画の神秘に宗教的な祈りを捧げる魂の声と対話する画家であるからだろうか

彼は宗教的絵画を描くシャガールを「偽りの人為的」画家、ルオーは創意に欠けた「内面の空間に到達することを知らない」画家と一刀両断。返す刀でシュルレアリスムも血祭り。
 
こんなバルテュスの過激な発言と裏腹に彼の生涯はおよそ波乱万丈とは無縁の家族愛に包まれ、彼の絵が語るような自然の静寂の中を流れる昨日も今日も明日もない反近代的、非連続の時間の中で、私は彼の瞑想と振動を共有するのだった。
 
彼は自らを芸術家と呼ばない。職人であることの誇りが彼を社会と切り離し、孤高の画家のイメージを与え、1960年代の若者にスイスの聖者と呼ばれたヘッセとどこか結びつくが、実はバルテュスが愛したのはリルケであった。

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