日本人の優しさに泣いた 被災帰国の中国人研修生 …今朝の朝日新聞29面から。

東日本大震災の被災者には、東北の水産業を支える中国人研修生も多かった。彼らの中には、厳しい環境で日本人の優しさに触れ、日本の印象が大きく変わったという人も少なくない。
 
中国遼寧省北鎮出身の張迪さん(25)は宮城県気仙沼市の水産加工会社「サンフーズ気仙沼」で働いていて、地震にあった。
 
工場は海から200メートルで17~18人の作業員のうち女性の研修生が6人いた。津波警報が鳴り響く中、近くの気仙沼市魚市場の屋上に避難。
作業着姿の張さんが凍えていると、営業課長の伊藤亘さん(38)が着ていたジャンパーをくれた。
 
白い霧状の水煙を巻き上げた高さ5~6びの津波がぐんぐん近づき、周辺の建物をあっという間になぎ倒した。
火が付いた無数の木片が海面に漂い、「地獄のようだった」と振り返る。
 
翌日、市民会館に移った。避難者がひしめき、食料はほとんどない状態。そんな中で、以前同じ職場で働いていた40歳前後の「菅野さん」に出会った。
あめ玉2個とビスケット2枚を分けてくれた。「顔見知り程度なのに、持っていたものを全部くれるなんて。感動して泣きました」
 
張さんは中国大使館が手配したバスで新潟に移り、3月20日に空路で帰国した。2008年の来日前は日本のイメージは悪かったが、震災で触れた優しさに心打たれた。
「復興したら日本に行き、助けてくれた多くの人に感謝を伝えたい」 

大津波で壊滅的な打撃を受けた宮城県南三陸町。遼寧省盤山から来た研修生の楊丹さん(28)が働いていた水産加工会社「渡冷」の工場は海から数キロ離れた高台にあった。道路が寸断され陸の孤島となった。
 
日本人従業員は家族を捜しに出て行ったが、同じ工場で働く山口修一さん(41)と稲葉守男さん(38)が中国人の研修生9人に付き添ってくれた。2人はいずれも家を流され、山口さんは母親が、稲葉さんはおじが行方不明となったという。それでも2人は洗濯物を入れるかごを背負い、研修生のためにカップめんや菓子などを拾い集めた。
 
3月20日に帰国した楊さんは、大連の日本語学校入学を決めた。「日本人を嫌いな中国人は多いけど、私は日本が好き。日系企業に就職してまた日本で働きたい」  

(瀋陽=西村大輔)

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