弁当箱 大名の特権 野遊びのお供…物録、朝日新聞夕刊から。
教室や公園、旅先の電車の中で、弁当箱を広げた時の高揚感は、いくつになっても変わらない楽しみだ。
弁当箱の起源は、白木で中に仕切りがある箱状の「破(わり)子」だったとされる。鎌倉末期の「徒然草」にも、破子を持って紅葉をめでる話が登場する。弁当箱が登場する以前は、いわゆる携行食。蒸したもち米を干した「糖」を袋に入れて持参していた。
安土桃山時代になると、大名や豪族ら特権階級が重箱やとっくり、酒器、取り皿がセットになった「提重」を野遊びに持参するようになった。
どんな中身なのか。伝承料理研究家の奥村彪生(あやお)さんは花見弁当の中身を調べたことがある。
記録は見つがらなかったが、織田信長が安土城で徳川家康をもてなした品書きから推測すると、「白鳥やうずらの焼き鳥、アワビを酒と塩でいりつけたもの、カラスミなどではないか」。
弁当が大衆化し、種類も豊富になっだのは江戸時代。相撲、芝居、伊勢参り、花見などの行事や娯楽に合わせて弁当が楽しまれた。
歌舞伎や能の合間に頂くために登場したのが「幕の内弁当」だ。
明治になるとアルミ製の弁当箱が発売され、「日の丸弁当」が親しまれた。昭和初期には、高級料亭「吉兆」の創始者、湯木貞一さんが江戸初期の画家、松花堂昭乗考案の絵の具入れをヒントに、「松花堂弁当」を創作。その後の日本料理に大きな影響を与えた。(山内深紗子)