「大義」の機関紙と新聞の違い—事実を暴くのが報道の使命—
「大義」を掲げる機関紙と、事実を検証する新聞の本来の役割の違いを論じた一章。取材や検証よりも理念が優先される報道の危険性と、歴史におけるメディアの責任を問う。
2015-12-28
「大義」の機関紙を私は新聞とは呼ばない。
なぜなら、「大義」の正体を暴くのが新聞と思っているからだ。
以下は前章の続きである。
「歴史」に復讐される。
「大義」の前には、取材も検証もない。
事実関係よりも、いかに大義を掲げ、読者を扇動するかが重視される。
長谷川は嘆く。
〈「大義」の機関紙を私は新聞とは呼ばない。
なぜなら、「大義」の正体を暴くのが新聞と思っているからだ。
「大義」の機関紙はアジびらである〉
〈一九八〇年代から二〇〇〇年代初めにかけての、「吉田清治」虚報に始まり、松井やよりの「法廷」運動の応援へと続く一連の慰安婦キャンペーンも「大義」になびき、「大義」を乱造する朝日新聞社の、「庸人的」歴史の一つの象徴的な現象であったと思う〉
〈それにしても怖いのは、「大義」は、そのすり替えたものも含めて、それを担ぎ、背負った者を、それを「大義」とみなすが故に威張らせ、開き直らせることである〉
