西欧型民主社会主義と中国共産党を守るための論理の罠加藤周一の政治思想と戦後リベラル知識人の限界
本稿は、西尾幹二氏による論考を紹介しながら、戦後日本のリベラル知識人の思想的矛盾を批判する章である。
加藤周一の西洋文化理解、日本文化理解の双方の曖昧さ、そして中国共産党と西欧型民主社会主義を同列に守ろうとする論理の破綻を指摘し、日本の戦後思想の弱点を鋭く描き出している。
2019-03-27
西欧型民主社会主義と中国共産党をどうしても守りたい、中国の強権独裁を非難するのなら自民党も同じではないか、と味噌も糞も一緒にする論理の罠にはまった。
西洋文化でもなく日本文化でもない彼のあのいいとこ取りの、血を流さない甘さは、政治を語って情緒的無定見の馬脚を露した、と題して2018-08-16に発信した章を再発信する。
以下は月刊誌正論今月号(840円)に、私が選ぶ、戦後リベラル砦の「三悪人」、半藤一利、中島健蔵、加藤周一、薄弱な、あまりに薄弱な知性と題して掲載された西尾幹二氏の論文の続きである。
見出し以外の文中強調は私。
社会主義は亡びずと言いたい。
古田博司さんに加藤周一の西洋への姿勢のいびつさを難じた文章がある。
日本近代を贋物として憎む余りの、西洋への接近の仕方の言いわけがましさをうっとうしい眺めだと言っている(『「紙の本」はかく語りき』ちくま文庫所収)。
加藤は夏の初めに毎年軽井沢追分に赴き、文化村風のこの小さな集落とそれをとり巻く自然についてのみごとな写実の文章を残した。
古田は「西洋画に似せて描かれた日本画のようである」と書き、とりあえず加藤の「和魂」を認めはしたが、これにひきかえ彼の「洋魂」の方はいかにも「似非」に見えるとこき下ろす。
給費留学生としては落第したと書く彼がたちまちフランス語で論争するまでに言葉を駆使した、というのを古田は「まずあり得ないこと」で、ウソだと断じている。
『羊の歌』。『続・羊の歌』における「加藤周一の西洋描写は日本描写とは真逆で、日本画家の描いた手馴れぬパステル画のようで全然美しくない。」
要するに加藤周一は日本文化を語れば西洋画を真似した日本画のようなものになり、西洋文化を語ればたまたま西洋を旅した、一日本人画家が手すさびに西洋式に描いた中途半端の醜さを露呈している。
加藤は西洋文化に本気でぶつかっていないし、精髄を掴まえてもいない。
それゆえ日本理解の方も趣味的の域をどうしても出ない。
どっちにも魂が入っていないからだ。
そう言いたいのであろう。
古田さんはいい所に目を付けている。
これが戦争末期から秘かに軽井沢に集っていた中村真一郎、福永武彦らフランス系文学者達の戦後を教導した美学の正体である。
追分の象徴は堀辰雄であり、今は加賀乙彦である。
加藤周一は朝日新聞夕刊の連載「夕陽妄語」で政治イデオロギーまる出しの「妄語」を蝦蟇が大きな口を空けて肚の中まる出しに見せてしまう、無防備かつ愚劣な晩年の醜態をさらした。
例えば政権交替のできなかった当時の自民党を中国の強権独裁と同質同列に扱い、中学生も誤解しないこんなデタラメを書くな、と私から窘められた(『新潮45』1990年3月号)。
加藤は冷戦の終結で崩壊したのはスターリニズムだけで、社会主義は亡びていないと言いたいために、西欧型民主社会主義と中国共産党をどうしても守りたい、中国の強権独裁を非難するのなら自民党も同じではないか、と味噌も糞も一緒にする論理の罠にはまった。
西洋文化でもなく日本文化でもない彼のあのいいとこ取りの、血を流さない甘さは、政治を語って情緒的無定見の馬脚を露した。
この稿続く。