圧倒的勝利の後に備えていた明治政府。旅順報道と国際世論戦の実相。
旅順事件をめぐる欧米メディアの扇情的報道と、それに対する反対証言、さらに明治政府が不平等条約改正交渉への悪影響を警戒し、開戦当初から対外世論を視野に入れていた実態を描く論考である。
『ニューヨーク・ワールド』や『タイムズ』などの報道、ゲルヴィルやダネタン報告による反証、伊藤博文・陸奥宗光らの苦慮を通じて、日本が軍事だけでなく国際情報戦にも直面していたことを示している。
2019-03-20
圧倒的に勝った時に起こる日本に批判的な国際世論対策を戦争当初から想定しており、
以下もまた、今やジャーナリズムはインターネットに在る事を実証している記事である。
欧米メディアの報道。
最初の報道。
旅順での事件を目撃した外国人ジャーナリストたちは、記事を打電するために日本に引き揚げていた。
彼らは第二軍に従軍し取材していた記者達で、この事件報道に深く関わるのは『タイムズ』の特派員トーマス・コーウェン、『ニューヨーク・ワールド』のクリールマン(James Creelman)、『ヘラルド』のA・B・ド・ガーヴィル(ゲルヴィル)、『スタンダード』及び『ブラック・アンド・ホワイト』のヴィリアースの4人である。
11月26日以降、旅順占領が報じられるようになる。
タイムズはイギリス極東艦隊のフリーマントル中将に同行して旅順に上陸した将校の目撃談や、旅順から戻ったコーウェン記者の記事を発表し、事件が海外に知られることとなった。
しかし注目を集めるようになったのは12月12日の新聞『ニューヨーク・ワールド』のクリールマンの記事によってであった。
「日本軍は11月21日に旅順入りし、冷酷にほとんど全ての住民を虐殺した。
無防備で非武装の住人達が自らの家で殺され、その体は言い表すことばもないぐらいに切り刻まれていた」
と扇情的な報道がされている。
その後も彼は旅順占領後の報道を続けた。
彼の扇情的な報道にその他の新聞・雑誌も追随し、日本政府は苦境に立たされることになる。
最もセンセーショナルな報道は『ノース・アメリカン・レヴュー』1895年3月号におけるフレデリック・ヴィリアース(ウィリアース)の「旅順の真実」記事で、「三日間の虐殺によって僅か36人の中国人だけが生き残った」と書いている。
反対証言。
ゲルヴィルによる証言。
旅順陥落を目撃したニューヨーク・ヘラルド特派員のアメデ・バイロ・ド・ゲルヴィルは1895年1月3日の『レズリーズ・ウィークリー』でクリールマンの報道するような虐殺は発生していないと証言し、さらにゲルヴィルは1904年の著書『Au Japon』で虐殺は捏造されたものであったと論じた。
ダネタン報告。
また、ベルギー公使アルベール・ダネタンの本国への報告調査では、事件は「ニューヨーク・ワールド紙の記者によって多分に誇張されたもの」で、フランス武官ラブリ子爵は、殺された者は軍服を脱いだ中国兵(便衣兵)であり、婦女子は殺されていないし、旅順港占領の数日前にほとんどの住民は避難しており、町には兵士と工廠の職工たちだけであったと述べている。
明治政府の対応。
明治政府首脳陣の伊藤博文や陸奥宗光が頭を悩ませたのは、事件そのものの有無と実際の差よりも当時進行中であったアメリカとの不平等条約改正交渉への影響で、アメリカで躓けば他国との条約交渉にも影響を与えかねなかったことだった。
事件の報道後、アメリカやロシアの駐日公使が陸奥を訪ね善後策を問い質し、アメリカの上院では調印された日米新条約の批准に反対する声が少し上がり始めた。
明治政府は事前の清国の実情から勝つのは確実だとして、圧倒的に勝った時に起こる日本に批判的な国際世論対策を戦争当初から想定しており、陸奥宗光と各国公使も外国の新聞の報道を報告していた。