これは日韓合邦によって韓国が受けた恩恵の、めざましい一例である。—『韓国は「植民地」ではなかった』をめぐって—

本稿は、『歴史通』月刊誌WiLL4月号別冊202X年『「韓国」消滅へのカウントダウン』に掲載された渡部昇一の論考「韓国は『植民地』ではなかった」を紹介しながら、日韓合邦を「植民地支配」ではなく「合邦」として捉える視点を提示するものである。
論文は、annexationとcolonizationの語義の違い、ブリタニカ百科事典や英国文献の記述、李王家の待遇、朝鮮半島の治安と経済発展、さらに朴正煕の生涯を例に、日本統治が朝鮮半島にもたらした影響を論じている。
戦後日本で定着した歴史認識を再検討し、日韓合邦、植民地論、台湾統治、朴正煕、歴史認識をめぐる論点を考えるための一文である。

2019-03-13
これは日韓合邦によって韓国が受けた恩恵のめざましい一例と言えるでしょう。
この種の例は無数にあったのです。

今、発売中の『歴史通』月刊誌WiLL4月号別冊202X年『「韓国」消滅へのカウントダウン』(980円)は日本国民全員が必読の本である。
何故なら戦後、朝日新聞などを購読し、NHKを視聴して来ただけの多くの国民に、何故か、全く知らされなかった、報道されなかった本当の歴史が満載されているからである。
掲載されている以下の論文は、山形県が生んだ巨星であり、日本の宝物として生を全うした渡部昇一大先輩が私達に残してくれた大事な遺産である。

韓国は「植民地」ではなかった。

「日帝36年の植民地支配」とは朝鮮側の主張にすぎない。
日本側にもそれに呼応する声がある。
だが、世界史的視野で見ればどうか。
「合邦」と「植民地」とでは大違いなのだ。

ピサロの侵略と「コロニー」。

明治43年(1910)、日本と韓国は合邦しました。
これを日本による韓国の「植民地化」ととらえる考え方があり、むしろ、それが一般的な風潮となっています。
もちろん、韓国や北朝鮮は政治的な利害からそう主張している。
それでまず、いわゆる「日韓併合」は二つの帝国の合邦であり、一方が他方を植民地化したのではないことを明確に認識しましょう。
朝鮮は日清戦争における日本のおかげで「大韓帝国」になったことを忘れてはなりません。
話はそこから始まるのです。
つまり帝国同士の合邦なのですから。

たとえば、英語の文献では、日韓合邦のことを「アネクセイション」(annexation)と表現しています。
これは「植民地化」を意味する「コロナイゼーション」(colonization)とはイメージがまったく違う。
歴史を公平に客観的に見るには、言葉が当時どのように使われていたかを知ることも重要です。
現代の常識で過去を断罪すべきではありません。
頭ではわかっていても、ついついいまの物差しで歴史を計ってしまいがちです。

そこで、少々衒学めきますが、初めに「アネクセイション」と「コロナイゼーション」の違いを、イギリスの辞典などにもとづき、できるだけわかりやすく述べておきたいと思います。

まずコロナイゼーションの語源を考えてみましょう。
“colonization”の“colo”は「耕す」とか「居住する」という意味です。
このラテン語の動詞の過去分詞“cultum”は「耕された」。
「洗練された」の意で、「耕作」「教養」の意味の英語「カルチャー」(culture)も、そこからきています。

“cultum”の派生語である“colonia”は、「農場」「領地」という意味でした。
元来はローマ帝国の拡大にともなって新たな征服地へ移り住んだローマ市民、とくに「ベテラン」(veteran)と呼ばれる除隊した兵士たちが住んだ土地のことです。
彼らはローマ市民権を持ち、駐屯兵として帝国防衛の役割も担いました。
「屯田兵」のようなものと言えばわかりやすいでしょうか。

イギリスをみてみると、ブリテン島にはローマのコロニアが九つありました。
よく知られている地域では、ロンドン、バース、チェスター、リンカーンなどがあげられます。
いずれも当時はローマのコロニアでした。

さて、ローマ時代には「農場」「領地」という意味だった「コロニア」が、やがてギリシヤ語の「アポイキア」(apoikia)の意味にも使われるようになりました。
ギリシヤはシュラキウスやイタリアの島に入植し、独立・自治の“植民地”を建設した。
それが「アポイキア」で、メトロポリス(母なるポリス)から独立して住むところという意味でしたが、それもラテン語ではコロニアというようになったのです。

では現代英語で「植民地」をさす「コロニー」(colony)という言葉はいつから使われるようになったのか。

最初にコロニーという言葉を英語で使ったのは、リチャード・イーデンという16世紀イギリスの翻訳家です。
ペルーのインカ帝国を滅ぼし、文明を破壊した例のスペイン人、フランシスコ・ピサロの行状を書いた本の翻訳のなかで、彼が初めて「コロニー」という言葉を使いました。
1555年に出版した“The Decades of the Newe Worlde, or West India”という本に出てきます。

植民地に犯罪者を送り込んだ英国。

現代語の「コロニー」。
つまり「植民地」という言葉は、大航海時代、ペルーの先住民族を絶滅にまで追い込んだピサロの非道な侵略・掠奪を連想させる言葉として英語に入ったわけです。
1555年といえば、毛利元就が厳島の戦いで陶晴賢を破って中国地方を支配する基礎を固めた年。
織田信長が桶狭間の戦いで今川義元に勝利する5年前です。

「植民地をつくる」という動詞コロナイズ(colonize)、そして「植民地化」という名詞コロナイゼーション(colonization)は、1770年、エドマンド・バークが最初に使いました。
著書“The Thoughts on the Present Discontents”のなかで彼は、“Our Growth by colonization and by conquest”という言い方をしています。
その6年後の1776年に刊行された、アダム・スミスの『国富論』には“The discovery and colonization of America”という用例が見られます。
インディアンを蹴散らして強引に土地を奪うというニュアンスです。
日本でいえば田沼時代にあたります。

イギリスの詩人・作家であるロバート・サウジーは、晩年には『ネルソン提督伝』を書き、小説家ウォルター・スコットの推薦で桂冠詩人にもなっていますが、若いころは、いまでは忘れられている「パンティソクラシー」(pantisocracy)。
日本語にすれば「万民同権社会」なるものを夢見た人で、ドン・マヌエル・アルバレース・エスプリエーラというスペインの旅行者が書いたという設定の“Letters from England”(1807年)に、次のように書いています。
「犯罪者をもって植民させる(colonize)ことはイギリスのシステムの一つである」。
つまり、イギリスが植民地に犯罪者を送り込んでいることを批判しているのです。
彼はまた、英国人の生活は、とくにその産業的・商業的な拡大という面で非常な危険にさらされているとも言っています。

この頃から、英語の「コロナイズ」には侵略・掠奪というイメージがあり、イギリスの心ある人たちはみな悪い意味で使っていたのです。

日韓合邦は「アネクセイション」。

1830年代になると、アメリカでは、「コロナイゼーショニズム」(colonizationism)=植民地主義とか、「colonizationist」=植民地主義者という言葉も用いられるようになりました。
これなどはまったく批判的な意味合いを持っています。

もともと悪い意味ではなかった「コロニア」という言葉が、大航海時代に白人が有色人種の国を征服していくにしたがって「コロナイズ」という言葉を生み、「掠奪」「侵略」というイメージを持つようになったのです。

その「コロナイゼーション」という言葉は、日韓合邦については私の知る限り、イギリスの文献にはまったく現れません。
すべて「アネクセイション」(annexation)と書かれています。

「アネクセイション」という言葉は、イギリスの哲学者フランシス・ベーコンが1626年より以前に書いたといわれる“Union of England and Scotland”のなかで、「二つの国(民族)の土地から、一つのコンパウンデッド・アネクセイション(複合した合併)をなす」と、平等というニュアンスで使っています。

1875年には、ジェームズ・ブライスという法学者・歴史学者が、“The Holy Roman Empire”のなかにこう書いています。
「フランスは、ピーモントをアネクセイション(合併)することによって、アルプス山脈を越えた」。
ここにも「掠奪」という意味合いはまったくありません。

動詞の「アネックス」(annex)は、subordination(従属関係)なしに、という意味を元来含んでいて、もともとどちらが上というニュアンスはなかったのです。

1846年に出た『英国史』。
元来はラテン語の本で、それ以前に出版されているのですが、そのなかには「ジュリアス・シーザーはブリテンをローマ帝国にアネックスした」という記述があります。
この場合も、ローマがブリテン島に文明をおよぼしたというニュアンスが強く、掠奪したという感じはない。

略奪、征服の意味はない。

さらに「アネクセイショニスト」(annexationist)という言葉は、アメリカにおけるテキサス併合論者の意味です。
1845年に実現したアメリカの「テキサス併合(annexation)」という言葉にも、「掠奪」や「征服」という意味はありません。

このことをふまえて、『ブリタニカ百科事典』1922年の第12版を見てみましょう。
日韓合邦の翌年、1911年の第11版にはまだ記載がなく、12年後に発行された第12版の「Korea」の項目のなかに、初めて日韓合邦のことが出てくるのです。

1771年にグレートブリテンのエディンバラで第1版が出たブリタニカは、イギリスのみで発行されていた時代には『ロンドン・タイムズ』と並び、情報の公平さで世界的に評価され、世界中の知識人に読まれた信頼度の高い事典です。
そこには、こう書かれています。

「1910年8月22日、コリアは大日本帝国(Japanese Empire)の欠くべからざる部分(integral part)になった」。

ここで「欠くべからざる部分(integral part)」という書き方をしていることからも、“植民地”とは見なしていないことがわかります。

「国名はおよそ五百年前に使われていた朝鮮(Chosen)に戻った。
日本が外交権を持った1906年以来、日本によって秩序ある体系的な進歩がはじまっていたが、これ(合邦)によってその進捗はさらに確かなものになった」。

ただ、「コリアン・ナショナリズムの抑圧を批判する人もいる」ということも書かれ、以下、およそ次のような趣旨の記述が続きます。
「警察制度を整備して内治をすすめたことによって泥棒や強盗団が跋扈していた辺鄙な地方の治安もよくなった。
朝鮮の平穏さは、併合(annexation)以来、曇ることなく続いていたが、1919年3月に突如、騒乱が起こった。
これはウィルソン米大統領の唱えた民族自決主義(self-determination)の影響であったが、ただちに鎮圧された。
日本は慎重に改革を進めていたが、これを見て計画を急ぐことになった。
注目すべきことに、軍人だけでなく民間人でも朝鮮総督に就任できることになり、総督は天皇のみに責任を負う立場から、首相に従うこととなった」。

朴正煕が日本から受けた恩恵。

原敬首相は、教育・産業・公務員制度について日本人と朝鮮人との差別を取り除く政策を進めていると声明し、こうして朝鮮に再び平穏が戻った。
その後も不満分子はときどき騒いだが、みごとに押さえられていた。

朝鮮人が暴動を起こすのは日本統治時代に限ったことではありません。
独立後も済州島事件(1948)や光州事件(1980)など、ずいぶん反乱が起こっている。
日本時代よりむしろ多いくらいです。

それはともかく、この1922年版ブリタニカの記述にも、すべて「アネクセイション」という言葉が使われているのです。

それから4年後の1926年に発行された第13版には「Annexation of Korea」という項目がたてられ、「日清・日露戦争は、朝鮮が日本の心臓に向けられた短刀となることを防ぐための戦いであった」と記し、「朝鮮の宮廷人たちの気まぐれで自殺的な外交をやめさせるためには日本が合併するより方法がなかったが、とどのつまり、伊藤博文の暗殺によってクライマックスを迎えた」と、日本に対して非常に同情的に書かれています。

日本との合邦後、朝鮮半島ではいかに経済が発展し、安定したかというようなことも縷々述べられています。
「朝鮮を治めるのは日本の責任であると東京の政府は考え、朝鮮王家は、高い名誉と潤沢な経済支援を受けることになった」と記されているのは、朝鮮の李王家に対する日本の丁重な遇し方のことです。
日本の皇族に準ずる待遇をし、李垠皇太子のもとには梨本宮家の方子女王が嫁いでいます。
侵略によって征服された「植民地」の王家であれば、本国の王家と婚姻を結ぶなど、ありえない話です。
朝鮮王でシナの皇族の娘を妻とした例はありません。

つまり合邦により、日本には皇族、公族(李王家一族)、華族という三種の上流階級が生じたことになります。
ちなみに華族になった朝鮮の両班家は、侯爵6人、伯爵7人、子爵22人、男爵45人でありました。

それまでの朝鮮半島は清国に支配されていました。
朝鮮は明に建ててもらった国ですから、明が清に滅ぼされたとき、義理立てして抵抗したものだから、清に徹底的にやられてしまった。
清の属国だった時代が記憶に残っている人の話を聞かないと、そのひどさはなかなかピンときません。

私は、たまたま元北朝鮮の脱走兵だった人を1年ほど家に住まわせていたことがあります。
旧制の平壌中学を出た教養のある人でしたが、彼の話によれば、清末の朝鮮がなぜあれほど汚かったかといえば、清潔にしておくと清の兵隊がやって来るからで、だから彼らさえ近寄れないほど汚くしたのだというのです。
おいしい食べ物があるとすべて持っていかれるから料理も発達せず、口にするのはおこげくらいのもの。
倭寇が怖くて昔から海にも出られないから海の魚料理の発達もなかったのだそうです。

だから、日清・日露戦争のときも朝鮮の民衆は日本に協力的でした。
合邦についても、ブリタニカにもフェアに記載されていたように、たしかに反対派もいたしテロリストもいたけれど、大方の民衆は大喜びだったわけです。

合邦のおかげで朝鮮人がいかに救われたかは、1963年から79年まで5期にわたって韓国大統領をつとめた朴正煕の伝記を読めばわかります。

朴正煕は極貧の家で7人目の子供として生まれています。
日韓合邦以前の貧しかった朝鮮は今の北朝鮮のようなもので、多くの人が春窮で餓死していました。
だから、7人目の子など育つわけがありませんでした。
それが日韓合邦のために生き延びることができただけでなく、日本の教育政策によって学校にも行けた。
小学校で成績優秀だったために、日本人の先生のすすめで学費が免除される師範学校に進み、さらに満洲・新京の陸軍軍官学校に進学して首席で卒業したため、とくに選ばれて日本の陸軍士官学校に入りました。
日本と合邦していなければ考えられないコースをたどって、結果的には韓国大統領として「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長を故国にもたらしたのです。
これは日韓合邦によって韓国が受けた恩恵のめざましい一例と言えるでしょう。
この種の例は無数にあったのです。
この稿続く。

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