任那日本府を拒む韓国史観の矛盾。戦後日本の学界を覆った自虐史観と反日思想。
本稿は、任那、任那日本府、広開土王碑、前方後円墳、勾玉などの考古学的・文献的材料を通じて、古代における倭の朝鮮半島南部への関与をめぐる議論を整理したうえで、韓国民族史観の自己矛盾と、日本の戦後学界に広がった自虐史観を批判する一文である。
韓国側が『日本書紀』由来の記述は否定しながら、自国に都合のよい部分だけを利用してきたこと、また任那日本府や倭系遺物の存在に関する実証的研究を政治的理由から退けてきたことを問題視している。
そのうえで、戦後の日本の学界が反日思想に支配され、歴史の実証よりも政治的配慮を優先してきた現実に対して、読者も怒りを持って知るべきだと訴えている。
2019-03-03
それにしても韓国人の態様には呆れるが。
同時に戦後の学界が自虐史観と反日思想に支配されて来た事を。
読者も怒りを持って知るはずだ。
任那、みまな、にんな、663年、は、古代に存在した朝鮮半島南部の地域。
概要。
朝鮮半島における倭国の北端である『三国志』魏書東夷伝倭人条の項目における狗邪韓国の後継にあたる金官国を中心とする地域。
三韓の弁辰、弁韓および辰韓の一部。
馬韓の一部、現在の全羅南道を含む地域、を含むと看做すのが通説である。
任那諸国の中の金官国、現在の慶尚南道金海市、を指すものと主張する説もある。
後に狗邪韓国、金官国、そして任那となる地域は、弥生時代中期、前4、3世紀、に入り、従来の土器とは様式の全く異なる弥生土器が急増し始めるが、これは後の任那に繋がる地域へ倭人が進出した結果と見られる。
第二次世界大戦後、次第に政治的な理由により任那問題を避けることが多くなっていたが、倭が新羅や百済を臣民とした等と書かれている広開土王碑日本軍改竄説が否定され、史料価値が明確になったこと、またいくつもの日本固有の前方後円墳が朝鮮半島南部で発見され始めたことなどから、近年、ヤマト朝廷そのもの、或いは深い関連を持つ集団による統治権、軍事統括権および徴税権の存在について認める様々な見解が発表されている。
中略。
日本史学者の吉田孝は、『日本書紀』が加羅諸国を総称して任那と呼んだとする田中説が一般化したことを批判し、『日本書紀』の任那の用法は、「ヤマト」が大和国を指すと同時に倭国全体を指すのと同様に、任那加羅、金官国、を指すと同時に任那加羅を中心とする政治的領域の全体を指したものであると主張している。
中略。
任那日本府。
「任那日本府」も参照。
1960年代頃から朝鮮半島では民族主義史学が広がり、実証主義への反動から、記紀に記されているヤマト王権の直接的な任那支配は誇張されたものだとの主張がなされた。
1983年に慶尚南道の松鶴洞1号墳、墳丘長66メートル、が前方後円墳であると嶺南大学の姜仁求教授が実測図を発表したが、後の調査により、松鶴洞1号墳は、築成時期の異なる3基の円墳が偶然重なり合ったもので前方後円墳ではないとする見解を韓国の研究者が提唱した。
だが、松鶴洞1号墳は、日本の痕跡を消すために改竄工事を行った疑惑が持たれている。
これに関して1996年撮影写真は前方後円墳であったものが、2012年撮影写真では3つになっているという指摘がある。
朝鮮半島南西部では前方後円墳の発見が相次ぎ、これまでのところ全羅南道に11基、全羅北道に2基の前方後円墳があることが確認されている。
また朝鮮半島の前方後円墳は、いずれも5世紀後半から6世紀中葉という極めて限られた時期に成立したもので、百済が南遷して併呑を進める以前に存在した任那地域の西部や半島の南端部に存在し、円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物を伴うことが知られている。
ヤマト王権の勢力を示す他の傍証としては、新羅、百済、任那の勢力圏内で大量に出土し、高句麗の旧領では稀であるヒスイ製勾玉などがある。
戦前の日本の考古学者はこれをヤマト王権の勢力範囲を示す物と解釈していたが、戦後に朝鮮から日本へ伝来したものとする新解釈が提唱されたこともあった。
しかし、朝鮮半島にはヒスイの原産地がなく、古代においては東アジア全体でも日本の糸魚川周辺以外にヒスイ工房が発見されないことに加えて、最新の化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じことが判明し、日本からの輸出品であることがわかった。
*この記述を読んで直ぐに私の脳裏を過ったのは、私がとても大好きな場所の一つであり、恐らく日本で一番訪問しているであろう場所の一つでもある青蓮院のヒスイの縁起だった。*
中略。
実証主義を否定する韓国民族史観に基づく解釈。
現代韓国では民族の誇りを養う為、政府や学界が、記紀、考古学的成果、広開土王碑、『宋書』倭国伝等の史料を、積極的に曲解する民族史観を国を挙げて推進している。
1963年、金錫亨は「分国論」を発表した。
この主張は、三韓の住民が日本列島に移住し、各出身地毎に分国を建てたというもので、具体的には加耶人が広島、岡山に、新羅が東北にという主張である。
任那日本府の問題は、それぞれの分国がこれを争ったという解釈である。
この説に対しては、『日本書紀』を否定しておきながら、出雲神話、天孫降臨神話、神武天皇東征伝承などを歴史的事実と認め、そこから日本本土内の「分国」存在の結論を導き出しているのは自己矛盾の何物でもない等の批判がなされ、全く支持されなかった。
1970年代に入り、それに同調する日本の研究者井上秀雄は、「任那日本府」とは『日本書紀』が引用する『百済本記』において見られる呼称であり、6世紀末の百済が高句麗、新羅に対抗するために倭国、ヤマト王権、を懐柔しようとして、『魏志』、『三国志』、韓伝において朝鮮半島南部の諸国を意味していた「倭」と、日本列島の倭人の政権とを結びつけて、ヤマト王権の勢力が早くから朝鮮半島南部に及んでいたかのような印象を与えているに過ぎない。
実際の『百済本記』の記述では、任那日本府とヤマト王権とは直接的には何の関係も持たないことが読み取れると主張した。
*この井上秀雄も日本分断論に操縦されている男の一人である事は疑いの余地がないだろう。*
高麗大学教授で日本古代史学者の金鉉球は、『日本書紀』には倭が任那日本府を設置して、朝鮮半島南部を支配しながら、百済、高句麗、新羅三国の文化を搬出していったことになっているのに、韓国の中学校、高校の歴史教科書では、百済、高句麗、新羅三国の文化が日本に伝播される国際関係は説明がなされず、ただ高句麗、新羅、百済の三国が日本に文化を伝えた話だけを教えており、さらに百済、高句麗、新羅三国の文化を日本に伝えたとされる話は、朝鮮最古の史書は12世紀の『三国史記』であり、朝鮮の古代の史書は存在しないため、すべて『日本書紀』から引用している。
しかし、日本の学者が『日本書紀』を引用して、倭が朝鮮半島南部を支配したという任那日本府説を主張すると、韓国の学界はそれは受け入れることができないと拒否するのは、明白な矛盾であり、こうしたダブルスタンダードゆえに日本の学界が韓国の学界を軽く見ているのではないか、と指摘している。
日本史学に基づく解釈。
朝鮮学会編『前方後円墳と古代日朝関係』、2002年、では、西谷正は倭人系百済官僚が栄山江流域に存在したと主張し、山尾幸久は、倭人の有力者が百済に移住し、百済女性との間に儲けた二世が外交の使者になっている例を挙げ、そのような倭人系百済官僚の存在を主張した。
以上、ウィキペディアから。
*それにしても韓国人の態様には呆れるが。
同時に戦後の学界が自虐史観と反日思想に支配されて来た事を。
読者も怒りを持って知るはずだ。*