部落解放同盟はなぜ国連NGOを牛耳ったのか――IMADRが築いた左翼NGOロビー活動の構造

勝岡寛次氏の月刊誌Sound Argument掲載論文をもとに、部落解放同盟が設立した「反差別国際運動」(IMADR)が、国連における日本の左翼NGO活動の総元締として影響力を持つに至った経緯を検証する。国連人権NGO登録、久保田洋氏の役割、ジュネーブ事務所設置、左翼NGOによる対日勧告ロビー活動の実態を論じる

2020-01-10
何故、部落解放同盟が国連で日本のNGO団体を牛耳っているのだろうか。
以下は月刊誌正論今月号の特集、内から日本を蝕むもの、に、スイスで左翼NGOを仕切る「反差別国際運動」、と題して掲載されている勝岡寛次氏の論文からである。
本稿で勝岡氏は国連で日本を貶める活動をしている主体がIMADRである事を実証してくれている。
このIMADRについては数年前に検索していた時に偶々発見した事は読者は御存知のとおり。
それまで私が全く知らなかった様に日本人の99%が知らなかったはずである。
だからこそ日本国民は今すぐに最寄りの書店に購読に向かわなければならない。
何故なら朝日等を購読しNHKを視聴しているだけでは何も分からないからである。
分からない=沈黙している事は悪を増長させるだけだからだ。
市民団体を仕切る
「反差別国際運動」(略称IMADR、イマダーという団体がある。
国連を利用する左翼NGOにとっては、総元締のような存在だ。
「反差別国際運動」は、部落解放同盟の呼びかけで1988年に設立された国連人権NGO(非政府組織)である。
民族派もしくは保守NGOも最近は左翼NGOに対抗して、国連に足繁く通うようになったが、そこでぶつかる最初の関門がこの「反差別国際運動」なのである。
保守NGOが国連の委員会に出席しようとしても、《現地で日本の市民団体の動きを取り仕切っているリーダー格の団体に話が通っていないということで、会議から締め出されて》しまうのだという。
例えば、なでしこアクション代表の山本優美子氏は、次のように言う。
《「今回の委員会をコーディネートする日本のNGOの代表とやりとりしてください」と言われて連絡してみると、部落解放同盟なのですね。そこが日本側の参加団体を取りまとめています。彼らは「反差別国際運動」という国連の正式なNGOとして登録しています》(『国連が世界に広めた「慰安婦=性奴隷」の嘘』)
何故、部落解放同盟が国連で日本のNGO団体を牛耳っているのだろうか。
IMADRはいかにして、今日のような大きな影響力を国連で行使するようになったのか。
左翼NGOを手引きした人物
部落解放同盟は、戦前の全国水平社の流れを汲む同和団体の一つである。
昭和21年結成の部落解放全国委員会を、昭和30年に部落解放同盟と改称した。
初代委員長、松本治一郎が社会党から立候補して参院議員になったこともあり元々社会党の影響力が強かったが、昭和40年代以降多くの幹部が、解放同盟の切り崩しを図った自民党の「同和対策事業」に取り込まれ、共産党系幹部との内部闘争が激化した。
結局、後者は昭和45年に解放同盟を脱退し、昭和51年、全国部落解放運動連合会(全解連)を結成する。
その後も、社会党系の解放同盟と共産党系の全解連は激しく対立したまま、今日に至っている。
解放同盟は、昭和44年に成立した同和対策事業特別措置法により、国内では頭打ちになった同和運動の打開を図るべく、1976年以降は国連と接触し、部落解放運動の国際化を模索する。
その過程で出会ったのが、ジュネーブの国連欧州本部にいた国連人権担当官・久保田洋であった。
当時の日本では、NGOというものはまだ殆ど知られておらず、久保田は国際会議の場でNGOの働きかけが重要であるということを、1980年代初頭から事あるごとに説いて回っていた。
例えば、次のようにである。
《国連NGOになれば、人権諸会議への出席は元より、そこでの発言権、書面提出権も認められている。その活動範囲は、思いのほか広いのである。(中略)
ところが、現在まで日本からは、そのような経済社会理事会登録のNGOになり国連人権会議に代表を送り国際的な人権保障活動に積極的に参加しようとする民間団体はひとつもない。(中略)たとえ未登録NGOであっても、国連に対して人権侵害に関する申し立てを提訴することもできるし、会議場での傍聴も許されるし、ロビイングの余地もある。(中略)ところが、国際会議の場でNGOの慟きかけが重要であるということは、日本では、まったくといっていいほど知られていない》(久保田洋「国連の人権保障活動におけるNGOの役割」、『国連』六二(二)
久保田は多くのメティアで同様のことを主張し、国連におけるNGO活動の重要性を熱っぽく語った。
久保田の具体的な提言は、国連を通じて部落解放運動の広がりを模索していた解放同盟にとっては、正に“渡りに船”であった。
久保田の助言によって解放同盟が「反差別国際運動」を設立するのは、1988年1月のことである(理事長は解放同盟中央執行委員長の上杉佐一郎)。
久保田は翌1989年6月、自動車事故により急逝したが、IMADRにとって久保田は、正に“生みの親”であったと言える。
TIMADRの事務局長だった友永健三は、その訃報を悼む文章の中で《氏の協力と助言がなければ、部落解放同盟や部落解放研究所による、今日のような活発な国際連帯活動はなかった》「『部落解放』二九九)と明言しているし、IMADR結成当初、唯一の事務局員だった鈴木美恵子は人日本のなかのマイノリティの人たちが、83年ぐらいから、ジュネーブの人権小委員会に行くようになるのですけれども、そのころから久保田さんがジュネーブにくる人たちにいろいろアドバイスを与えたりしていた》(『国連・NGO実践ハンドブック』)と証言している。
久保田はIMADRの創設に尽力し、その英文機関誌“peoples”創刊号の編集にも携わるほどだった。
IMADRと時を同じくして、日弁連(日本弁護士連合会)も久保田と頻りに接触し、「国連という場を利用して何ができるか」を模索していた。
久保田は「反差別国際運動」と日弁連に対して、国連への“橋渡し役”を自ら買って出ることにより、後の慰安婦騒動や左翼NGOの国連利用の種を蒔いた「張本人」、と言えるだろう。
MADRの登録への反対勢力
しかし、IMADRの「国連NGO」登録はすんなりとはいかなかった。
それを猛烈に妨害する勢力がいたからである。
それが部落解放同盟の「天敵」、共産党系の全解連であった。
全解連は国連NGOの登録審査が行われるジュネーブまで乗り込み、《「反差別国際運動」の主体である「解同」が暴力主義団体である事実》を執拗に訴えた。
このことは、多少の説明が必要かもしれない。
今日でこそ部落解放運動は下火になっているが、解放同盟は全国水平社結成時以来の《我々に対し穢多及び特殊部落民等の言行によって侮辱の意思を表示したる時は徹底的糾弾を為す》という闘争方針によって、しばしば暴力沙汰を惹き起してきた歴史がある。
地方自治体は暴力団まがいの解放同盟に恐れをなして萎縮し、解放同盟に巨額の補助金を拠出してきた歴史もある(高木正幸『新・同和問題と同和団体』等を参照)。
全解連の「反差別国際運動」国連NGO登録妨害工作は、一定の成果を挙げたように思われる。
というのは、1989年の第1回審査でも、1991年の第2回審査でも「継続審査」となって登録は見送られ、IMADRは苦杯を舐めているからである。
ジュネーブ事務所の設置が奏功
しかし、最終的には「反差別国際運動」は全解連の妨害工作をはねのけ、「3度目の正直」ではないが、第3回審査をクリヤーして、1993年3月に待望の国連NGOとしての協議資格(ロースターと言われる正式な資格)を取得した。
これは、一つには1991年にジュネーブにIMADRの事務所を置き、専従の事務局員(レベッカ・マーティンソン、後に田中敦子)を常駐させたことが大きい。
今日、日本のNGOがジュネーブの国連本部に行けば、必ずTIMADRのお世話にならなければならないようになっているのも、この時以来、TIMADRがジュネーブに常駐して国連ロビー活動を繰り広げてきた、その「成果」と言えるだろう。
解放同盟中央女性運動部長の山崎鈴子は、次のように言う。
《私はニューヨークに3回、ジュネーブに1回行きましたが、そこでIMADRの役割をすごく感じたんですね。協議資格を持っていることの大きさというか、事前に攵性差別撤廃委員会のメンバーが持っている問題意識を全部調査してくださっていて、あの委員には教育の問題がいいとか、DVの問題がいいとか、私たちにそういう情報を全部提供してくださって。そういうことが、日本政府に対する厳しい勧告として出てきたんだと思います》(『部落解放』七六二)
委員一人ひとりの「問題意識」まで情報として把握した上でロビー活動をする、こういう木目の細かさは、国連の委員会が開かれる度に日本から足を運ぶくらいでは、出来るものではない。
やはり現地に事務所を持ち、常駐の事務局員がいてこそのことである。
国連は左翼NGOの“巣窟”になっているという批判を、最近チラホラと聞くが、それにはそれなりの理由と歴史がある。
IMADRは正にその先駆的役割を果してきたのである。
この稿続く。

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