「公」と「礼」と「智」は何を意味するのか――アーサー・H・スミスが見た中国社会の公共精神、儀礼、正確さと、石平氏の批判
2020年8月8日。アーサー・H・スミスが19世紀中国について記した「公的財産への無関心」「面子を支える礼儀」「数字や正確さへの無頓着」を、石平氏が儒教の五常「義・礼・智」と対照させて論じる。公共精神、形式的礼儀、正確さをめぐる中国社会への厳しい批判を記録する。
2020-08-08
以下は前章の続きである。
前章では、儒教の五常「仁・義・礼・智・信」のうち、「仁」、すなわち思いやりについて、アーサー・H・スミスの中国社会観察と石平氏の論評を紹介した。
本章では続いて、「義」「礼」「智」が取り上げられる。
石平氏は、儒教思想が掲げてきた理念と、スミスが実際に観察した中国社会の行動との間には大きな隔たりがあると論じている。
【本文】
公共精神の欠落。
「義」はどうか。
スミスは、人々は個人としても全体としても、自分自身が直接損失を受けない限り、公的財産がどうなろうと関心も責任も持たず、道路に限らず「公」という概念そのものが中国社会にはなじみにくい、と指摘している。
石平氏は、この記述を踏まえ、中国人には公共精神が欠落していると厳しく批判する。
社会や公共というものに関心を持たないばかりか、むしろ利用できる公的財産であれば奪い取ろうとする、と論じる。
スミスは、公的なものに関心を持たないだけではなく、それが保護されておらず利用可能であれば、盗み取ろうとする例さえあると記している。
道路の敷石が私用のために持ち去られ、城壁表面のレンガも広い範囲にわたって少しずつ失われていったという。
石平氏は、そこから「中国人にとって『公』こそ奪い取る対象なのです」と結論づける。
次に「礼」。
中国では昔から礼儀が重視され、長幼の序を尊び、三跪九叩頭の礼に象徴されるように、形式と儀式が重んじられてきた。
しかしスミスは、礼儀を「空気枕」にたとえている。
中身はなくても、衝撃をかなり和らげる働きはする、という意味である。
さらにスミスは、中国の長大な宴会についても記している。
信じ難いほど大量かつ多種類の料理が延々と供され、中国側には十分なもてなしと思えても、外国人には恐怖や絶望すら感じさせるほどであるという。
石平氏は、この大量の料理も、客が本当に食べたいかどうかより、主人が自らの権勢や面子を示すためのものだと論じる。
儀礼的訪問についても、スミスは中国には限度というものがなく、客は宿泊を勧められない限り疲れ果てるまで話し続け、外国人を訪問するときにも時間の存在とその貴重さを理解していないかのように何時間も座り続け、自分から暇を告げようとしない、と記している。
石平氏は、こうした記述を総合し、中国社会における「礼」は相手を思いやる礼儀というより、自らの面子を立てるための技術として機能する場合が多いと批判する。
スミスもまた、あらゆる振る舞いが最終的には「面子の問題」に関わっていると記し、とりわけ大都市において、外国人に雇われた中国人が見せる表面的な礼儀正しさの多くは、外面を覆う化粧板にすぎない、と分析している。
次に「智」。
中国人も当然、知識を重んじる。
しかし石平氏は、一方で物事の正しさや正確さを追求する姿勢が弱いと論じる。
スミスは、中国人が「何百」「何千」「何万」といった概数表現を頻繁に用い、それ以上の正確さをあまり問題にしないと記した。
石平氏は、これを「白髪三千丈」の世界になぞらえる。
数字に対して大雑把であるというのである。
そして、このような正確さに対する姿勢から、技術革新や科学的発想が中国から自律的に生まれることには悲観的である、と極めて厳しい評価を下している。
「義」「礼」「智」。
本来、公共精神、礼節、知性を意味する徳目でありながら、石平氏は、スミスの中国社会観察を通じて、その理念と現実との大きな乖離を指摘しているのである。
この稿続く。