雨はいつか上がる――雨上がりの薔薇と、オーガスティン・ハーデリッヒのメンデルスゾーン
2026年8月9日
2011年12月、8か月の長期入院から退院し、翌2012年には300日を京都府立植物園で撮影して過ごした。
雨上がりの薔薇と、大火傷から復帰したヴァイオリニスト、オーガスティン・ハーデリッヒのメンデルスゾーン。
二つの「再び生きる」という時間が、一つの音楽の中でつながった。
2012年7月12日、京都府立植物園。
雨上がりの薔薇である。
前年の2011年12月16日、私は8か月間に及ぶ長期入院を終え、完治して退院した。
そして翌2012年、私は1年365日のうち、実に300日を京都府立植物園の花鳥風月を撮影して過ごした。
花を撮った。
鳥を撮った。
光を撮った。
雨を撮った。
風を撮った。
季節が移ろってゆく、その一瞬一瞬を撮り続けた。
だから、このような写真も撮れたのである。
雨が上がったばかりの薔薇。
花弁にも葉にも、まだ雨の記憶が雫となって残っている。
晴れた日の薔薇とは違う。
雨に濡れた薔薇には静けさがある。
儚さがある。
そして、その奥には驚くほど鮮烈な生命の輝きがある。
長い入院生活を終えたばかりの私にとって、あの年の京都府立植物園は、単なる撮影場所ではなかった。
毎日そこへ行く。
昨日とは違う光を見る。
昨日には咲いていなかった花に出会う。
鳥の声を聴く。
風を感じる。
雨上がりの葉に宿る一粒の雫を見る。
それは、生きているということを、毎日のように確かめる時間でもあった。
その写真に合わせる音楽を考えていたとき、オーガスティン・ハーデリッヒのメンデルスゾーン《ヴァイオリン協奏曲》に行き着いた。
そして、彼の人生を思った。
ハーデリッヒもまた、若い時に大変な火傷を負った。
そこから長い時間をかけて回復し、再びヴァイオリンを手にし、世界の舞台へ戻ってきた演奏家である。
そのことを思った時、私の中で何かがつながったのである。
私は8か月の入院を終えて、再び外の世界へ戻った。
そして京都府立植物園へ通い続け、花を撮った。
彼は大火傷という苛酷な出来事を越えて、再びヴァイオリンを弾いた。
もちろん、二つの人生は同じではない。
しかし、そこには一つ、確かに共通するものがある。
再び、生きること。
再び、自分の前にある美しいものへ向かうこと。
雨上がりの薔薇を見ていると、私は思う。
人生には、突然、雨が降る。
いつ止むのか分からないほど、長く降り続く雨もある。
だが、雨はいつか上がる。
そして、雨が降った後にしか見ることのできない美しさがある。
雨に打たれた薔薇は、雨の前と同じ薔薇ではない。
雫をまとい、それまでとは違う美しさを見せる。
人間も、そうなのかもしれない。
経験した苦難を無かったことにはできない。
しかし、その後にしか奏でることのできない一音がある。
その後にしか見ることのできない一輪の薔薇がある。
生きていたから、私はこの薔薇に出会えた。
そして彼もまた、再びヴァイオリンを奏でる場所へ戻ってきた。
だから、ハーデリッヒのメンデルスゾーンを聴いた時、私は深く心を動かされたのである。
単に素晴らしい演奏だからではない。
その音の向こうに、一人の人間が再び立ち上がり、音楽へ戻ってきた時間を思ったからである。
2012年7月12日。
京都府立植物園。
雨上がりの薔薇。
そして、オーガスティン・ハーデリッヒが奏でるメンデルスゾーン。
私には、この二つが一つの言葉で結ばれているように思える。
雨は、いつか上がる。
そして、その後にしか見ることのできない美しさがある。