「本多勝一」という「虚人」|ベトナム報道と共産党系組織の見解を装った記事

2019年10月23日発信。
別冊正論「堕ちたメディア」の特集「言論で闘わない言論機関」に掲載された藤岡信勝氏の論文をもとに、本多勝一氏のベトナム報道、とりわけ『戦場の村』以降の報道手法と、ベトナム仏教徒集団自殺事件をめぐる記事の問題点を検証する。
ティエン・ハオ師の発言を独自取材のように見せた手法、殿岡昭郎氏との訴訟、そして本多氏の敗訴を通じて、朝日新聞系ジャーナリズムの構造的問題を論じる。

2019-10-23
ティエン・ハオ師とは、共産党支配下の愛国仏教会の幹部で、その記者会見には読売や毎日の記者も同席していたが、あまりに嘘くさいと思ったのか、一行も報道せずに無視していたものである。
以下は「堕ちたメディア」と題した別冊正論の、言論で闘わない言論機関、の特集からである。
「本多勝一」という「虚人」。
藤岡信勝。
前文省略。
こうした時期の1966年12月、本多は特派員として南ベトナムに派遣された。
ベトナム報道ものの時代の始まりである。
アメリカ軍とサイゴン政権のもとで取材を始めた本多は、やがて、メコン・デルタ地帯に秘密に存在した南ベトナム解放戦線(ベトコン)が支配する村に遭遇し、例の参与観察的な方法によって秘密のベールに閉ざされた解放区の実情をルポルタージュとして世界に発信した。
この一連の報道をまとめたのが、1968年に出版された『戦場の村』であった。
こうして、本多はゆくりなくも「ベトナム民衆」を発見した。
しかし、この作品を初期の民族学的三部作と同列に並べることは出来ない。
なぜなら、『戦場の村』には三部作にはなかった鋭い政治性が刻印されざるを得なかったし、取材の過程においても、本多に全く自由な取材を許したとは考えられない。
取材は結局はベトコンのお膳立てでなされたものである。
ジャーナリストとしての自由な取材ではあり得ない。
だから、本多がベトコンの戦場の村の第三者性を説得的に描いたとしたら、それは結果として、北ベトナムへのエールと反米の世論を煽るものにならざるを得ない。
これは三部作の時期のルポルタージュの方法からの決定的な変質を意味した。
殿岡との訴訟に敗北。
殿岡昭郎著『体験的本多勝一論』(日新報道、2003年刊)という本を手にしたのがいつのことか、今ではハッキリしない。
一読、深い感動を味わうとともに、これ程見事に「本多ルポルタージュ破産の証明」(本のサブタイトル)を成し遂げた体験記が書かれていたことに驚き、著者に対して深い敬意と感謝の念を抱いたことを記憶している。
戦後書かれたノンフィクション作品の中の名著の一つに入ると思う。
殿岡昭郎は1941年生まれの政治学者で、「東南アジアの共産主義とベトナム戦争」が研究対象の一つであった。
殿岡は、1974年から東京学芸大学の助教授をつとめていた。
ベトナムでは1975年にサイゴンを北ベトナムの戦車が解放し、アメリカは撤退した。
ベトナム全土は共産党が支配する国になった。
しかし、共産党が権力を握ってしまうと、仏教徒に対する弾圧も始まった。
こうした中で、1975年11月2日、メコン・デルタの都市カントーにある永厳寺で、宗教弾圧に抗議して12の僧侶と尼僧(僧侶3人、尼僧9人)が集団自殺を遂げる事件が起こった。
日本の新聞各紙がパリ発のロイター電でこれを報道したのは、1976年9月9日付け夕刊でだった。
これについて、本多は独自の取材をしたかのように装い、集団自殺の首謀者の僧侶ファム・ヴァム・コーはサイゴン政府のスパイで、思想的に堕落していたため、寺の中で多くの尼僧と関係を持ち、合計26人を妻にしていたとし、このため大衆の支持を失い、絶望的になって自殺の巻き添えに他の尼僧や弟子たちを引きずり込んだものであったと書いた。
それらの記事は『ベトナムはどうなっているのか?』(1977年、朝日新聞社)に収録されている。
しかし、この記事は、本当は本多が独自に取材したものでも何でもなかった。
右のようなことを書き連ねたあと、本多は文章の最後の最後に、「ティエン・ハオ師は以上のように語った」と書き加えていた。
ティエン・ハオ師とは、共産党支配下の愛国仏教会の幹部で、その記者会見には読売や毎日の記者も同席していたが、あまりに嘘くさいと思ったのか、一行も報道せずに無視していたものである。
それを本多は、あたかも独自の取材の結果であるかのように読者を誤導し、実は共産党系組織の見解に過ぎないことを最後の一文でアリバイ的にこっそりと書き加えていたのであった。
要するに本多は、最後に責任を問われないように逃げたのだが、この行動パターンは、後の『中国の旅』に対する批判への対応と全く同型である点が興味深い。
ここには、民族学的調査三部作のころの本多ルポルタージュの方法は影も形もない。
殿岡は1978年9月、ベトナム統一仏教会の高僧マン・ザック師に面会した。
本多の記事の内容を告げた時のマン・ザック師の反応を、殿岡はこう描写している。
「…師はそれまで座っていた椅子から立ち上がり、興奮からか部屋の中をしきりに歩き始めた。/そのときの表情が忘れられない。青々と剃り上げた頭を考え込むように一方に傾け、大きく鼻腔を膨らまして荒い息をつき、擦り合わせた両手の指の関節をポキポキと鳴らした」
殿岡はミニコミ紙「月曜評論」に本多批判を書き、『諸君!』1981年5月号で「今こそ『ベトナムに平和を』」という論文を書いた。
「月曜評論」の記事は、『言論人の生態-思考と行動と知性を衝く』(1981年、高木書房)に収録されている。
これに対し本多は、『諸君!』編集長・堤堯と殿岡を相手取り、名誉毀損訴訟を起こすのである。
訴訟は最高裁まで進み、本多は三度にわたって敗訴した。
この稿続く。

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