トイレットペーパー騒動はなぜ起きるのか――流言はウイルスと同じく社会を蝕む
新型コロナウイルスの拡大に伴い、マスク不足に続いてトイレットペーパー不足のデマが広がった。マスクとトイレットペーパーは原材料が異なり、トイレットペーパーはほぼ国産品である。1973年の石油ショック時の騒動を重ね、流言が社会不安を生む危険性を考える。
2020-03-02
トイレットペーパー騒動はなぜ起きるのか――流言はウイルスと同じく社会を蝕む
以下は今日の産経抄からである。
マスクがいまだに手に入らない。
仕事柄テレワーク、すなわち在宅勤務というわけにもいかない。
新型コロナウイルスに感染していなくても、通勤電車でせきやくしゃみが出てくることがある。
エチケット通りに袖に口を当てても、周囲の冷たい視線は変わらない。
マスク不足が問題になりはじめたころ、昭和四十八年、一九七三年のトイレットペーパー騒動を思い出していた。
発端は第四次中東戦争をきっかけにして、日本を襲った石油ショックである。
ガソリンや灯油など石油製品の価格は急騰した。
やがて、トイレットペーパーがなくなる、との噂が関西を中心に広がった。
買い占めなどによる混乱は全国に拡大していく。
同じ動きは、やはり石油に直接関係のない砂糖や醤油などにも波及した。
そのトイレットペーパーの品薄説が、インターネットやSNSなどを通じて、再び拡散している。
理由として挙げているのが次の二つだ。
「マスクの製造にトイレットペーパーの材料が使われている」
「中国からの輸入が止まる」
どちらも間違っている。
まず、マスクは「不織布」、トイレットペーパーは「パルプや古紙」と、原材料が異なっている。
ほぼ一〇〇%の国産品でもあり、新型ウイルスの発生源である中国の影響は受けない。
もっとも、デマと分かっていても、スーパーやドラッグストアの売り場から商品が消えたと聞かされれば、不安を抑えきれなくなるものだ。
根拠のない無責任な噂を流言と呼ぶ。
評論家の清水幾太郎によれば、中国の古典『荀子』や『史記』にある古い言葉で、「一片の流言はよく国を傾けることが出来る」とある。
『流言蜚語』である。
人類にとって流言はウイルスと同様、果てしなく闘いが続く存在のようである。
この記事は、まことに時宜を得たものである。
マスクが不足している。
それだけなら、まだ分かる。
中国で大量に生産されていたものが、発生源そのものとなった中国の混乱によって、供給に影響を受けたからである。
だが、そこからトイレットペーパーがなくなるという話に飛躍するところに、現代社会の危うさがある。
マスクは不織布。
トイレットペーパーはパルプや古紙。
原材料が違う。
しかも、トイレットペーパーはほぼ一〇〇%の国産品である。
中国からの輸入が止まるからなくなる、などという話は、最初から成り立たない。
にもかかわらず、売り場から商品が消える。
人々が買い占めに走る。
それを見た別の人々が、やはり不安になって買う。
こうして、存在しなかった不足が、現実の不足のように見えてくる。
流言とは、まさにこのようにして社会を侵していく。
ウイルスが人から人へ感染するように、流言もまた人から人へ感染する。
しかも、今日の流言は、昔の井戸端会議のような速度ではない。
インターネットとSNSによって、一瞬で全国へ、時には世界へ広がる。
だからこそ、流言は昔よりもはるかに危険になっている。
昭和四十八年のトイレットペーパー騒動は、石油ショックという現実の不安を背景にしていた。
今回の騒動も、新型コロナウイルスという現実の不安を背景にしている。
しかし、不安が現実であることと、噂が正しいこととは全く別である。
現実の不安があるからこそ、人は嘘に乗せられやすくなる。
そして、その嘘が、人々の行動を動かし、実際の混乱を作り出す。
ここに、流言の恐ろしさがある。
清水幾太郎が言うように、一片の流言はよく国を傾けることが出来る。
国家を傾けるのは、必ずしも軍隊や爆弾だけではない。
根拠のない噂。
それを無批判に広げる人間。
そして、それを商売や政治利用に変える者たち。
これらが重なった時、社会は簡単に混乱する。
今、国民が為すべきことは、慌てることではない。
買い占めに走ることでもない。
テレビやSNSから流れてくる言葉を、ただ信じることでもない。
まず、事実を確認することである。
マスクとトイレットペーパーは原材料が違う。
トイレットペーパーはほぼ国産品である。
この二つの事実だけで、今回のデマは崩れる。
それでも不安に駆られて買い占めに走るなら、それはウイルスと同じく、社会を蝕む側に回るということである。
流言はウイルスと同じである。
それを広げるか、そこで止めるか。
一人一人の理性が問われているのである。