そんなことが、小説家として与えられた才能でなんか在るわけはないのである。
そんなことが、小説家として与えられた才能でなんか在るわけはないのである。
2011-08-12
先般、何かの週刊誌の書評欄で、村上春樹の小説における、延々と続くセックスシーンについて、嫌味がない、美しい、人間とは結局エロスなのだな、そういう村上春樹に宿っている小説家としての天分、云々と、女性脚本家か何かが書いていた。
私は、この評者は、知性とは何かが全く分かっていない、ただそれだけなのだと思う。
知性ある者とは、性を語るにおいても、絶対に嫌らしくは語らない。
この女性評者が感じたように、語り、描写するものだからである。
性を下卑て語る者には、昔から、いわゆる先生と呼ばれる連中や、権力を振りかざす連中が多い。
これもまた、知性の常識である。
だが、この評者は、終ぞ、そのことを知らなかったのだろう。
そんなことが、小説家として与えられた才能でなんか在るわけはないのである。
そんなことは、知性ある者の常識、知性の常識に過ぎない。
2011年8月12日の時点で、私はすでに、村上春樹をめぐる日本の文芸評価の異常さを指摘していた。
問題は、村上春樹個人の性描写の巧拙などではなかった。
それを「小説家としての天分」などと称揚する評者たちの、知性の欠如こそが問題だったのである。
性を下卑ずに語ることは、特別な才能などではない。
知性ある者にとっては、常識に過ぎない。
知性の常識に過ぎない。
この一点を、私は15年前から、すでに明確に書いていたのである。