朝日新聞は大江健三郎に媚びて「事実」に目をつむる
「沖縄ノート」や「悪魔の飽食」などの偽りの書を無責任に褒めそやすが
冗長な文章で普通ならボツに
司令官は自決を必死に止めた
ネタ元は共産党員の嘘っぱち
以下は今日我が家に届いた定期購読専門月刊誌テーミスに掲載されている高山正之の連載コラムからである。
私は彼の連載コラムを読むためだけのために、この月刊誌を購読していると言っても過言ではない。
本論文も彼が戦後の世界で唯一無二のジャーナリストである事を証明している。
日本国民のみならず世界中の人たちが必読。
朝日新聞は大江健三郎に媚びて「事実」に目をつむる
「沖縄ノート」や「悪魔の飽食」などの偽りの書を無責任に褒めそやすが
冗長な文章で普通ならボツに
楚の平王に父と兄を殺された伍子胥は隣国、呉に逃げ、呉王闔閭に仕える。
代が変わって夫差の時代になると憎い平王の楚を討つ案を献策。
そして楚を倒したが、平王はすでに亡くなっていた。
日本人だったらどうだろう。
肩肘から力が抜け、気負いも失せ、何でこんなことに血道を上げていたのか、つい苦笑いするかもしれない。
しかし支那人は違う。
伍子胥は平王の墓を暴き、死体を引きずり出して鞭打った。
「屍を鞭打つこと300/然るのち已む」と司馬遷の『史記』にある。
300回も屍に鞭を食らわしてやっと満足したという意味だ。
「死者を鞭打つ」という言葉の元になる話だが、日本でここまでやったら鼻白まれる。
悪人でも死ねば仏さまだ。
もういいじゃないかみたいな空気がある。
でも「それで済まされない奴だっている」と先日、届けられた小冊子『国体文化』のコラム「新・不都合な日本語」にあった。
筆者は大野敏明。
産経新聞社会部時代の後輩で、癖はあるけれど文章は蘊蓄があって柔らかく楽しい。
引用すると「死んだ者を鞭打つのは好むところではないけれど、この男、大江健三郎には一言っておかなくてはならない」。
なぜなら大江が死んだとき「日本中のテレビ、新聞が、産経まで含めて彼を悼み、彼の業績をたたえるような記事や評伝を載せた」からだ。
そのままにしたらこの男の犯した罪を赦すどころか承認したかのように受け取られてしまう。
それが許せないと。
実は同じことをこっちも書こうと思ってついかまけていた。
このコラムに便乗して一言、述べておきたい。
大江は文学者という。
こちらも同じ文字を使い文章を書く。
デスクとしてヒトの原稿も見てきた。
その目で大江の文を見ると冗長で、時に意味不明ですらある。
普通ならボツだ。
添削したら100行が20行になる。
いやいやアチラさんはあれでノーベル文学賞を取っている。
それも間違いなしに間違いだ。
あの賞は結構、間違いが多い。
例えば土星型原子モデルを唱えた長岡半太郎を外して「陽子のパンに電子がちりばめられた」ブドウパン型原子モデルを主張した英物理学者ジョゼフ・トムソンにノーベル賞が出ている。
あるいは日本の核武装を嫌う米国が佐藤栄作の「非核三原則」発言に付け込んで急ぎ平和賞を与えたケースもある。
司令官は自決を必死に止めた
大江の文章は誰が見ても評価外だ。
むしろ反日イデオローグとしての政治的評価による受賞と見た方がいい。
納得しない人はカズオ・イシグロを読めばいい。
翻訳しても平易で、分かり易く、『わたしを離さないで』のようにヒトの尊厳の根幹までみずみずしい感性で問うている。
大江のそれとは雲泥の差だ。
加えてあの戦後民主主義的腐臭だ。
護憲集会に出た大江は壇上から安倍首相を「何度も呼び捨てにした」と元産経新聞編集局長の乾正人が呆れて書いていた。
文学者は言葉を大事にする。
穏やかな言葉でも肺腑を扶る。
罵詈雑言でしか表現できないなら山口二郎と変わりない。
それともう一つ、朝日新聞が評伝で褒めそやした『沖縄ノート』がある。
大江は渡嘉敷の現地司令官が「皇軍の足手まといにならず、食い扶持を減らすために島民に集団自決させた」と書いた。
曽野綾子は怪しんで取材し、現地司令官は自決を必死に止めた側で、戦後、軍命で自決したことにすれば遺族年金が出るのを知って「自分の名誉を捨てて自決命令を出したことにした」という真実に辿り着いた。
曽野綾子は大江の無責任な筆致に余程腹立たしさを覚えたのだろう。
それでも大江は蛙の面に何とやらだ。
訂正もしない。
岩波も絶版にもしない。
現地指揮官の遺族が裁判所に訴えても判決は大江無罪。
大江はいい気になって「事実などどうでもいい。日本軍が悪い、日本政府が悪いと高みに立って書きまくる」と大野は続ける。
「ノーベル賞作家だから誰も文句は言わない。真実だと受け入れてしまう」「この男に良心があるのかね」とも。
「誰も文句は言わない」の中に新聞も入る。
記者たちも曽野綾子を黙殺した。
世間には数多の知識人がいる。
彼らも曽野綾子に続かなかった。
実はそこにはもう一つの理由がある。
物書きは新聞、雑誌に書く。
ところがその世界にはヘンなしがらみがある。
例えば岩波とか講談社とかは大江に書いてもらってナンボになる。
大江を売る出版社の系列刊行物に大江の批判は断固載せない。
大江に媚びる新聞社もそんな論評は載せない。
ある種の閉ざされた言語空間が厳然とある。
ネタ元は共産党員の嘘っぱち
大江が死んで間もなく作家の森村誠一が死んだ。
推理作家で売り出したが、ヒトは売れるとなぜか社会派に転身したくなるらしい。
それで731部隊『悪魔の飽食』を書いた。
ネタ元は共産党の下里某。
中共が創った嘘っぱちが大元だ。
このときは産経が糾弾したが、他紙は沈黙した。
今回、朝日は森村の評伝でその過ちを訂正するかと思ったら『悪魔の飽食』を見出しに取っていた。
あたかも731部隊の蛮行が事実かのように。
山崎豊子が『沈まぬ太陽』のモデルにした小倉寛太郎は日本の航空界再建を阻む日共の工作員だった。
この話も同じように出版社系によって葬られた。
人間は過ちを犯す。
森村は反省したと聞く。
しかし大江や山崎は確信犯だ。
新聞社や出版社の都合で伏せられてきたことでも、せめて棺の蓋を閉じるときには正直に書き直したい。
そうでないと『沖縄ノート』みたいな偽りの書がそのまま残ってしまう。