のぞき見趣味を正当化するために動員された民主主義と平等主義。—西部邁『マスコミ亡国論』が暴く、大衆とマスコミの卑しさ—
2019年6月26日に発信した本稿は、故・西部邁氏の『マスコミ亡国論』を踏まえ、リクルート騒動をめぐる大衆心理とマスコミ報道の本質を鋭く抉る一節である。
平等主義や民主主義が、実はのぞき見趣味や嫉妬、好奇心の正当化に動員されていたこと、さらに実名公表と反復報道によって情報社会の堕落が定型化していった過程を明らかにしている。
2019-06-26
自分のピーピングトム、つまりのぞき見趣味を正当化するために平等主義や民主主義を動員する、という大衆の自己正当化の動機が働いていたのではないか。
以下は、下記の故・西部邁氏の本「マスコミ亡国論」からである。
活字が読める日本国民は全員、今すぐに最寄りの書店に購読に向かわなければならない。
世界中の人たちは、私の翻訳で、皆さんの国のマスコミも同様である事を知るだろう。
以下は前章の続きである。
*この章で西部氏が指摘している事々は、そっくりそのまま、森友・加計騒動に当てはまる事は言うまでもない。あの騒動を作った朝日新聞と辻本清美・福島瑞穂等に代表される連中の卑しさが極まっていたし彼らに同調したテレビや追随した国民の卑しさも極まっていたのである。*
のぞき見趣味を正当化するために動員された民主主義や平等主義。
そこで次に「濡れ手で粟」とはどういうことなのか考えてみよう。
政治家や経営者の所得が、この言葉によってしつこく批判されつづけている。
人々が食うや食わずの状態にあるのなら、「あの粟があれば娘を女郎にたたき売らずにすんだ」というような感情論にも切実さが宿る。
しかし、「飽食の時代」にあっての「濡れ手で粟」はとうてい真実のものとは思われない。
いやその真実は大衆の嫉妬に根差している。
いや嫉妬ですらないのかもしれない。
リクルート事件に関しては嫉妬のような強い感情はみられなかった。
それはむしろ、他人のありうべきいかがわしさにたいする好奇心にすぎなかったのではないか。
自分のところへくるはずもない株の行く方にたいして嫉妬のような強い感情をもてるわけがない。
おそらくこのリクルート騒ぎの背景には、自分のピーピングトム、つまりのぞき見趣味を正当化するために平等主義や民主主義を動員する、という大衆の自己正当化の動機が働いていたのではないか。
垣根ごしにのぞき見て騒ぎ立てる行為が、悪代官の悪政にたいして一揆で向かっていった百姓たちの行為よりも下卑た行為であることはいうまでもないであろう。
見逃しにできないのは、こうした愚かしい騒ぎにまぎれて情報社会の堕落を物語るグロテスクな事態が進行したということである。
実名公表問題がそれだ。
マスコミは、リクルート関係者の実名を挙げて、彼らをダーティだとして指弾するキャンペーンを続けた。
国民もそれにオウム返しに反応して、それらの実名を声高に繰り返した。
かつてナチスがやったように、「大声で繰り返す」ことによって集団心理が形成されたのである。
そして、ロッキードのときも同じだが、騒ぎが一応終息してしまうと、今度は公判開始や判決などの機会に、またぞろ話を蒸し返し、弾劾キャンペーンを繰り返す。
国民もその都度キャンペーンに乗っていく。
これはもうほとんど情報社会のメカニズムといってよいほどの定型化されたプロセスである。
実際、平成元年の年末にリクルートの公判が開始されるや、大報道がはじまった。
その報道の意味内容はまったく希薄なのだが、国民が大報道に乗っていくという仕組みだけはしっかりと独り歩きしているのである。
マスコミの大衆路線といわれているものの内容が、カネ、イロ、ノゾキでしかないというのは衆知のことではある。
それは精神汚染の拡散にほかならず、しかも汚染はますます低次元へと落ちていく。
リクルート騒ぎにおけるカネ、政治家の女性スキャンダルにおける女、それらをピーピングトムした結果を実名を挙げつつ誇らしげに公表するマスコミ、この二年間の騒ぎを総括してみれば、要するにこういうことだったのだ。
この項続く。