ポツダム宣言は有条件だった—戦後日本は条約違反から始まった
2019年6月23日発信。
ポツダム宣言は無条件降伏ではなく有条件降伏だったという視点から、日本の戦後がいかに条約違反と誤った歴史認識の上に始まったかを論じる一篇。
田中メモ、コミンテルンの陰謀、カイロ宣言、全土占領、シベリア抑留、戦前日本の民主主義的傾向などを取り上げ、占領政策と戦後史観の根本を問い直している。
2019-06-23
当時の旧制中学三年生くらいの男子生徒は、国際情勢に対して鋭かったのである。いまの中学三年生では、あんなふうに理解はできないと思う。
第1章 戦後はポツダム宣言違反から始まった
ポツダム宣言は有条件
日本の戦後はポツダム宣言の受諾によって始まった。
ポツダム宣言を受諾した日、私は旧制中学に工場を造るため、体育館の床を剥がしたりしていた。
その日、重大な放送があるというので、廊下に出て皆で聞いた。
ラジオから流れる不鮮明な天皇陛下のお言葉から、私たちはすぐにポツダム宣言を受諾したんだ、負けたんだということを悟った。
当時の旧制中学三年生くらいの男子生徒は、国際情勢に対して鋭かったのである。
いまの中学三年生では、あんなふうに理解はできないと思う。
私の姉は役場に勤めていたのだが、やはりラジオの音が聞き取りにくかったようで、役場の人たちは内容を理解できず、「天皇陛下が何かおっしゃったのだから、皆で頑張ろう」と万歳をしたそうだ。
ポツダム宣言は13項目からなる。
その第5項に、「吾等ノ條件「左ノ如シ」と書いてあるが、英語では「條件」(条件)はtermsになっている。
これが、ポツダム宣言は無条件降伏(unconditional surrender)ではなく有条件降伏(capitulation)であり、占領軍が日本を好き勝手にできないことを示している。
キャピチュレイションというのはサレンダー(降伏)の条件を付けること、またその条件を記した文書を指す。
第5項は、日本に対して、次の条件で戦争を止めたらどうかというオファーである。
そして日本はそのオファーを受けた。
こういう場合、条約の曖昧な点は、国際法的にはオファーを受けたほうに有利に解釈される。
このポツダム宣言を作るにあたってアメリカでは、はじめ、日本に対してドイツと同じように無条件降伏を強制する意見が強かった。
しかし日本とドイツは違う。
ドイツはヒトラーも死に、政府もなく、交渉相手がない状態だった。
ところが、日本は交渉相手としての政府が残っていた。
さらに、アメリカの陸軍長官スティムソン(注1)の条件は、もし日本に無条件降伏を強制したならば、日本はどこまでも戦い抜くかもしれない、硫黄島や沖縄の例でもわかるように、アメリカ軍にも多大な損害が出るかもしれないから「軍隊だけの無条件降伏にすべきだ」と言ったのである。
有条件降伏の案は、アメリカの軍部のほうから出たのだ。
そしてそのとおりの条件が、ポツダム宣言のなかの一条件となったのである。
さらに、知日派で知られるクルー大使らは、日本に皇室を残すと言えばもっと簡単に戦争は終わるだろうと言ったのだが、その条文を削らせる力のほうが強かったのである。
ここで重要なのは、日本政府は「無条件降伏をした」と間違った解釈をしている人がいるが、そうではなく、ポツダム宣言は日本政府に対しての、日本の陸海軍に無条件降伏させよという唯一条件を含むオファーだということである。
(注1)ヘンリー・スティムソン(1867~1950)米国務長官時代、満洲における日本の軍事行動を非難する「スティムソン・ドクトリン」を公表。1940年に陸軍長官に再任され、日系人の強制収容を推進し、原爆製造と日本への投下を管理指導した。
コミンテルンの陰謀
では、ポツダム宣言における有条件とは何だったのか。
重要な点を細かく見ていこう。
ポツダム宣言の第6項には、「世界征服ノ挙二出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢カ「永久二除去セラレサルヘカラス」という文がある。
つまり、日本国民を騙して世界征服をしようという気を起こさせた権力、勢力は永久に除去されるべし、という意味である。
しかし、世界征服という考え方は日本のポリシーになかった。これがあったとされた所以は、田中義一内閣の時の「田中メモ」(田中上奏文)である。
それを見て、ルーズベルト米大統領が日本を滅ぼさなければならないと決心したと言われている。
ただ、日本では「田中メモ」なるものは誰が書いたかもわからないので、インチキだということになっていた。
「田中メモ」のなかには、日本は満洲を征服して、そこを足掛かりにしてシナを征服し、そして世界を征服するというシナリオが書いてある。
そして、そこにはさらに会議が開かれた様子が書かれていて、山縣有朋(注I)が出席していることになっている。
しかし、田中義一は長州閥で首相になった人だから、その親分格の山縣有朋が大正11年(1922)に亡くなっていて昭和2年(1927)とされる会議に出席できないということを知らないわけがない。
だから、「田中メモ」に信憑性がないことは明らかだ。
東京裁判でも、シナの検事側からは「田中メモ」が出された。
しかし、証拠として認められなかった。
最近の研究では、このメモはコミンテルン(注2)がモスクワで作って世界中に広めたとされている。
当時、ソ連の指導者・スターリンは満蒙国境に関心が高かったから、そこに世界の注目を引きつけておきたかったのだろう。
コミンテルンの陰謀のために、ポツダム宣言のなかには、日本に対する認識が誤っていた部分があったのである。
第7項には、「連合国ノ指定スヘキ日本国領域内ノ諸地点「吾等ノ茲二指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スルタメ占領セラルヘシ」とある。
これは、日本の戦争をする力を排除するために、国内領域のいくつかの地点を占領するということである。
しかし、戦後は日本全土が占領された。
明らかな条約違反だ。
第8項には、「『カイロ』官言ノ條項「履行セラルヘク」とある。
カイロ宣言とは、昭和18年(1943)にルーズベルト、蒋介石(国民政府主席)、チャーチル英首相が結んだものである。このなかでは、「宣言」は日本の侵略を止めるために行なうものであって、自分たちの利益のために何かを要求することはない、領土拡張については一切考えないと言っている。
そして、大正3年(1914)の第一次世界大戦開始以後に、日本が取ったり、占領したりした一切の島は取り上げると書いてある。
つまり、第一次大戦後、委任統治領として日本に与えられた南洋群島(マーシャル、カロリン、マリアナ、パラオなどの諸島)である。
また、満洲、台湾、澎湖島という、日本が清国からとった地域を中華民国に返すと言っている。
ということは、カイロ宣言によれば、北方領土は返還の対象に入らない。
ポツダム宣言では、わざわざカイロ宣言を履行すると書いてあるのだから、日本からすればこんなおかしなことはない。
遡れば、昭和16年(1941)8月に大西洋ニューファウンドランド・バンク沖)でルーズベルトとチャーチルが、イギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズ(昭和16年=1941年12月10日、マレー半島クァンタン沖で日本の航空隊により撃沈される)とアメリカの軍艦オーガスタ号の上で会談して大西洋憲章を発表している。
そのなかでは領土の変更を認めないと言っているのだから、カイロ官言自体が大西洋憲章の精神に違反していると言える。
さらに、ポツダム官言の第9項には、日本軍隊は完全に武装解除してすぐに自分の家に帰ること、とある。
しかし、ロシアはシベリア抑留の日本人60万人を帰さなかった。
第10項では、日本人を奴隷化するものではない、しかし捕虜虐待したものは処罰すると言っている。
これは国際条約に準じているが、ただし第10項で重要なのは、「日本国国民ノ間二於ケル民主主義的傾向ノ復活強化二対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ」と言っている点である(傍点渡部)。
だから、ポツダム宣言の時点においては、明治憲法の下で民主主義的傾向があったときちんと理解されていた。
左翼は戦前が真っ暗な軍国主義だったというようなことを言っているがそれは違う、とポツダム宣言が言っているのである。
13項には「日本国政府カ直二全日本国軍隊ノ無條件降伏ヲ宣言シ」とある。
これは先述したように、日本国政府に日本軍隊を無条件降伏させろということだ。
ポツダム宣言は国際条約であり、契約である。
契約というものは、その契約の締結者の双方を縛るものである。
したがって、日本を縛ると同時に相手国も縛らなくてはならない。
ところが、連合国側は縛られなかった。
(注1)山縣有朋(1838~1922)長州藩出身の軍人・政治家。高杉晋作の奇兵隊に参加して頭角を現し、明治維新後、ヨーロッパの兵制を視察して陸軍創設、徴兵令制定に活躍した。初代参謀本部長。のち陸相、内相、首相、枢密院議長を歴任。典型的な藩閥政治家として明治政府を主導し、元老として政界を支配したが、大正10年(1921)、裕仁親王(当時皇太子、のちの昭和天皇)の妃に内定していた良子女王(のちの香淳皇后)に色盲遺伝を理由に婚約辞退を迫った事件で権威を失墜させた。
(注2)コミンテルン 1919年、レーニンの率いるロシア(のちソ連)共産党を中心に、各国共産党および社会主義グループによってモスクワに創設された国際共産主義運動の指導組織。世界革命をめざしたが、1943年、ソ連の政策転換によって解散。第三インターナショナル。