本日、フェスティバルホールで聴くブラームス《ドイツ・レクイエム》――尾高忠明指揮・大阪フィル定期演奏会
ブラームス:ドイツ・レクイエム 作品45
ヨハネス・ブラームスの《ドイツ・レクイエム》は、死者の魂の安息を祈るための伝統的なレクイエムとは異なり、愛する者を失い、この世に残された人間を慰めるために書かれた作品である。
正式な題名は《聖書の言葉によるドイツ・レクイエム》。
ここでいう「ドイツ」とは、ドイツ民族のための音楽という意味ではなく、カトリック教会の典礼で用いられるラテン語ではなく、ブラームス自身の母国語であるドイツ語によって歌われるレクイエムという意味である。
ブラームスは、ルター訳聖書の中から自ら言葉を選び、死への恐怖や最後の審判を強調するのではなく、悲しむ者への慰め、人生の儚さ、復活への希望、そして死を超えて続く永遠の平安を描いた。
作曲は主に1860年代に進められ、1868年、ブレーメン大聖堂で六楽章版が演奏された後、現在の第五楽章が加えられ、全七楽章の作品として完成した。
この作品の背景には、1856年に亡くなったロベルト・シューマンへの思いと、1865年に亡くなった母クリスティアーネへの深い悲しみがあったと考えられている。
しかし《ドイツ・レクイエム》は、ブラームス個人の悲しみにとどまる作品ではない。
誰もが経験する死別の苦しみを、人類に共通する祈りと慰めへと昇華した、巨大で普遍的な音楽なのである。
第一楽章は、「悲しむ者は幸いである」という静かな言葉によって始まる。
通常のレクイエムで中心的な役割を担う死者ではなく、最初から「悲しむ者」に光が当てられていることが、この作品の性格を明確に示している。
低弦と合唱による柔らかな響きは、深い悲しみを包み込みながら、やがて涙を流して種を蒔く者が、喜びのうちに収穫を迎えるという希望へと進んでいく。
第二楽章は、「すべての肉は草のようである」という言葉によって、人間の命の儚さを描く。
重々しい歩みを持つ葬送行進曲風の音楽は、地上の栄光も肉体も、やがては失われることを厳しく告げる。
しかし音楽は絶望に終わらない。
「主によって贖われた者たちは帰り来る」という言葉とともに、合唱は大きく開かれ、悲しみは力強い希望へと変わる。
第三楽章では、バリトン独唱が「主よ、私の終わりを知らせてください」と問いかける。
人間の生の短さと不確かさが率直に歌われ、合唱もまた、その問いを全人類の声として受け継いでいく。
不安定な響きが続いた後、「正しい者の魂は神の御手にある」という確信に到達し、壮大なフーガが築かれる。
低音に長く保たれる音は、揺れ動く人間の心を支える、揺るぎない信仰の土台を象徴しているかのようである。
第四楽章は全曲の中心に置かれた、明るく穏やかな楽章である。
「あなたの住まいはいかに慕わしいことでしょう」という言葉が、美しく流れるような旋律によって歌われる。
ここには死の恐怖も激しい悲嘆もない。
魂がついに安らぎの場所を見いだしたかのような、透明で幸福な音楽が広がっている。
第五楽章では、ソプラノ独唱が「今はあなたがたも悲しんでいる」と歌う。
その声は、悲しみに沈む人間を優しく包み込む母の声のように響く。
「母がその子を慰めるように、私はあなたがたを慰める」という言葉は、母を失ったブラームス自身の思いと深く結び付いているとも考えられている。
合唱が静かに寄り添う中、ソプラノ独唱は悲しみの中にある人間へ、永遠の慈愛を語りかける。
第六楽章は、全曲中最も劇的で巨大な楽章である。
バリトン独唱が、死者の復活と最後の変容を告げると、音楽は次第に緊張を高めていく。
「死よ、お前の勝利はどこにあるのか」という言葉とともに、合唱は死そのものに正面から立ち向かう。
巨大なフーガによって神の栄光が讃えられ、死は終わりではなく、永遠への門であることが力強く示される。
第七楽章は、「主にあって死ぬ者は幸いである」という言葉によって始まる。
第一楽章の「悲しむ者は幸いである」という言葉と呼応し、作品全体は大きな円環を描いて閉じられる。
冒頭では残された者が慰められ、終曲では亡くなった者の安息が静かに祝福される。
最後の音楽は勝利を誇示するのではなく、深い静けさの中へ消えていく。
《ドイツ・レクイエム》は、死を恐怖として描く作品ではない。
死と悲しみを見つめながら、それでも人間は慰めを受け、希望を取り戻すことができるという確信を歌った作品である。
巨大な合唱とオーケストラを用いながら、その根底に流れているのは、悲しむ一人の人間に静かに寄り添おうとする、ブラームスの温かな眼差しである。
それゆえ、この作品は宗派や国境を超え、愛する者を失ったすべての人々に語りかける。
《ドイツ・レクイエム》は、死者のためのミサである以上に、生きている者が再び歩き始めるための、壮大な慰めの音楽なのである。