「大虐殺はない」と確信した東京裁判速記録――マギー牧師証言とオープン・シティ問題
2017-6-14
以下は前章の続きである。
大虐殺はないと確信した
そのうち、『「南京大虐殺」のまぼろし』(鈴木明著、二〇〇六年ワック出版より復刊)という本も出て、真実を知りたくなった私は雄松堂から出た『極東国際軍事裁判速記録』を買いました。
全10巻の百科事典のようなもので、本当は私はそんな物を買う義理はないのですが(笑)、とにかく買いました。
そして南京に関する部分を丁寧に見て、「大虐殺などない」という確信を得ました。
というのは、マギーという牧師さんが証言をしています。
この人は、イェール大学を出て南京にずっと住んでいた人です。
南京では日本が攻め入る時に、外国人たちが安全地区というものを作り、そこに一般の民衆も逃げ込ませていた。
マギー牧師は南京の赤十字の責任者でアメリカ人です。
ですから、日本軍が入城してからも、南京のどこでも歩き回れる人です。
この人が証人台に立った。
はじめのうちは、「あそこでたくさん殺されたそうです」「ここでたくさん殺されたそうです」と言っていた。
そのうち、アメリカ人の弁護士が、「それは伝聞証拠である。あなた自身は何人見られましたか」と反対尋問をしたのです。
するとさすがに牧師さんだけあって、聖書に手を置いたりしているのでしょう、嘘は言わなかった。
一人です」と言ったのです。
「どういう状況でしたか」とさらに弁護士が聞くと、「安全地区の境に日本の歩哨が立っていた所を、一人の中国人の青年が駆け抜けようとした。歩哨が止まれと言ったが止まらなかった。そして追いかけていって撃ち殺した」と証言したのです。
彼はこれしか見ていないのです。
戦場で歩哨に「止まれ」と言われて止まらないで逃げたら、どんな兵隊だって撃たれます。
ニューヨークに行って、警官に止まれと言われて止まらなかったら、今でも撃たれるんじゃないですか。
強姦についてはというとマギー牧師は、「ある空き家に行ったら、中国の女性と日本の兵隊がいた。私が行ったら、日本の兵隊はびっくりして銃剣を忘れて逃げて行った。私はその銃剣を拾って追いかけました」と証言しました。
このたった一件です。
強姦する前なのか後なのか、単に話し合っていただけなのかすらわからない証言です。
しかも、銃剣を置き忘れるなどということは兵隊にとっては大変なことです。
それだけ、「やるな」ということを上から厳しく言われていたのでしょう。
日本軍の略奪について聞かれたマギー牧師は、「空き家から日本兵が氷を入れる箱をかついで出るのを見ました」とこれだけを言ったのです。
南京を自由に歩ける立場にあって、日本兵も外国人には手出ししないよう厳しく言われていましたから身の危険もない、そして赤十字の責任者で牧師です。
その人が見たのが、この三件なのです。
大虐殺などあろうはずがない。
オープン・シティの問題
その後、調べてみると、日本軍は南京入場の前にオープン・シティを勧告しているのです。
抵抗するな、門を開けと、犠牲を最小限に押さえるためにオープン・シティを勧告している。
抵抗すると街が戦場になるからです。
それをシナ軍が無視したことに問題があります。
オープン・シティというのは非常に重要で、日露戦争でも奉天大会戦などと言いますが、奉天で戦争をしているわけじゃありません。
昔の軍隊は礼儀正しいですから、ロシアだって奉天の中で市街戦をやるという発想はない。
すぐ奉天から逃げていくんです。
旅順にしても旅順の要塞戦はありましたが、旅順の街中では戦っていません。
ステッセルがオープン・シティしたからです。
この前の戦争でもドイツ軍が入った時、パリはオープン・シティしました。
だからパリは傷つきませんでした。
その後、連合軍が攻め入った時、ドイツ軍の司令官はパリをオープン・シティしました。
パリは二度、助かったのです。
ただ、ヒトラーは野蛮人ですから、パリなんて焼いてしまえと言いましたが、ドイツ軍の司令官の方が教養があってパリは助かりました。
オープン・シティしなかった例はベルリンです。
戦場になって徹底的に破壊されました。
街の中を戦場にしてはいけないのです。
戦争するなら野原でやってくれ、ということです(笑)。
北京はオープン・シティしました。
ですから、「北京大虐殺」などという話はない。
保定というのは重要な街ですが、これもオープン・シティした。
武漢三鎮もオープン・シティしました。
だから南京もオープン・シティするべきだったんです。
蒋介石は日本の陸軍の教育を受けていますから、するつもりでした。
南京の外には中山陵があります。
ここに孫文の記念碑があります。
その記念碑のある丘に大砲をすえて撃つと、日本軍としては非常に都合がいいのですが、松井大将と孫文は非常に親しかったので、松井大将はそれを禁止しました。
それくらい、日本兵は相手に対して気を遣っていました。