戦前日本の右翼と陸軍に入った共産主義思想――二・二六事件が東條英機を生んだ

2017-6-13
以下は前章の続きである。
では、日本では何か誕生したかというと、右翼が誕生しました。
もちろん、左翼、共産党もありましたが、戦前の共産党はコミンテルン日本支部共産党と言っていました。
完全にソ連からの指令とお金と武器が入り込んでいた。
しかも、コミンテルンの指示の中には、「皇室をなくせ」というものが入っていたので、徹底的に取り締まられました。
ですから、戦前の共産党というのは、無視できるくらいの勢力でしかなかったのです。
そういう状況であったため、ソ連で革命勢力ができた時、日本では右翼が生まれたのです。
ですから右翼は、思想としては共産主義と同じです。
違うのは、共産主義はスターリンやモスクワに忠誠を誓うけれども、右翼は天皇に忠誠を誓うということです。
日本の右翼は、天皇と自分たち活動家の間には何もいらないと考えました。
地主も華族も実業家も何もいらない。
天皇直結、そして民衆の団結というのが右翼の考え方です。
戦前の左翼と右翼は、仰ぎ見るのがスターリンか天皇かの違いだけであって、北一輝も大川周明も、社会的プログラムでは共産主義者と本質的に変わるところがないのです。
治安維持法は第一は右翼を取り締まるため、第二は共産主義者を取り締まるためにできたものでしたが、どちらもまだ大した勢力ではなかった。
ところが、この共産主義と言ってもいい思想が、陸軍下級将校の中に入ったのです。
これが大問題に発展しました。
陸軍に入った共産主義思想
戦前の中学校というのは、日本男子の十人に一人が入れるかどうかというエリートコースです。
特に田舎に行くと、一つの村から何年かに一人、旧制中学に入るというようなもので、滅多に入れるものではなかった。
ですから、当時、中学校に行くだけで町内から仰ぎ見られます。
ウチの町内では私一人だけでしたから、大したものです(笑)。
その旧制中学の一、二年生の中で、一番から三番くらいまでの成績で、しかも体も丈夫、運動もできて、勉強もできるけれど近眼にもならないというような人だけが、陸軍ならば幼年学校に行ける。
四年生、五年生であれば、海軍兵学校や陸軍予科士官学校に行きます。
ですから、当時の軍人というのは華の華なのです。
山本五十六元帥の息子さんは非常に優秀な方で、もちろん父親の後を継いで海軍兵学校に入るつもりでしたが、近眼だかなんだかで落ちた。
それで東大に入ったというくらいです。
そんな優秀な人たちが、二十歳くらいで少尉になります。
そして鉄砲や機関銃を持っている兵隊が百二十人くらいつきます。
しかし、少尉や中尉や大尉では貧乏で、自分の兵隊はもっと貧乏です。
ところが気がついてみたら、一般の人たちでもどうも贅沢している奴らがいる。
兵隊たちはうんと貧しい東北からやってきているし、自分たちも貧しい。
彼らは、社会が間違っていると感じた。
これが青年将校です。
そこに、すーつと入り込んだのが、右翼という名の左翼です。
右翼思想が入りやすいのは、「身分の高い者、地主、経営者、資本家はなくせ、しかし皇室は敬え」と言ったので、軍人には受け入れやすかったからです。
青年将校が怖いのは部下を持っていることです。
最初の反乱である五・一五事件は犬養首相を殺していますが、この頃は国民もピンと来なかった。
「金持ちがいて、貧乏人がいるのはけしからん」というロシア革命からきた思想を、正しいことのように感じました。
ですから、首相を殺すような青年将校でも、裁判には救命のための手紙がたくさんいった。
首相を白昼殺した軍人が死刑にもならず、懲役十五年で、そのうち皇太子殿下(今上天皇)がお生まれになったので、恩赦になり出てくることになった。
こういう状況を見ていると、総理大臣を殺してもどうってことないんだな、と思うような人も出てくるのではないですか。
二・二六が東條を生んだ
そして二・二六事件は、これとは比べものにならないほど大きな事件でした。
大物の大臣たちがズラリと殺され、軍の首脳はオロオロするばかりで、これを押さえることができませんでした。
ただ、昭和天皇が「彼らは反乱軍である」と言ってくださったので、軍の幹部も動くことができ、天皇陛下のご発言が出たとビラがまかれたため、青年将校や兵隊たちもおさまったのです。
しかしこれをきっかけに、何でも軍の言うことが通るようになってしまいました。
「そんなことやりますと、また二・二六事件みたいなことが起こりますよ」などと言われると、誰でも怯えます。
そして、止めようがない。
どこから反乱が起こるかもしれないし、兵隊たちは上官の言うことをよく聞きますが、その上官は青年将校です。
一方、シナ事変は終わらない。
ですからどうしてもアメリカやイギリスと手を打たなくてはいけない。
その時は譲歩しなければならない。
しかし、外交的に譲歩したら、ニ・二六事件のようなものがまた起こる可能性が十分にあります。
では、二・二六事件を起こさないで、アメリカと話をつけられるのは誰か。
そこで、皆があの人でなければ駄目だと言ったのが、東條英機です。
東條さんは二・二六事件の時には満洲にいましたが、あの事件の関係者を実に見事に引っ捕らえました。
東條さんは陸軍大学は首席で出ていましたが、それまでは冷や飯を食わされていた。
決して出世コースをスムーズに歩いてきた人ではありません。
閑職につかされたあげく、満洲にやられていたんですが、満洲で腕前が認められてようやく陸軍次官に戻ってきたのです。
ですから、シナ事変のはじめの頃は東條さんは何も関係がない。
日本とアメリカとの交渉では、アメリカは全く譲歩しなかった。
それは、ルーズベルトがまだ大統領になる前に、「田中上奏文」というものを読んだからです。
「田中上奏文」というのは、昭和三年に政友会の会長で陸軍大将であった田中義一という首相が、天皇陛下に出したとされる国策プランです。
そこには、日本は満洲を制圧し、北シナを制圧し、全世界を制圧するというプランが書いてあった。
その文書が世界中に出回ったわけです。
しかし、日本では誰もそんなものは見たことがない。

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