歴史は人類共通の文化遺産である――申一徹・李御寧の日本観と、客観的な歴史認識を問う

2021-12-31
笑止というほかはない。当時も現在も、日本人の誰がこんなことを考えるだろうか。
開いた口が塞がらないとはこういうことを言うのだろう。
それが哲学者で教育人だというのだから呆れる。 

2019年03月13日

以下は前章の続きである。
前述の申一徹氏は70年代初めに次のように記している。  
〈元来、東北アジア文化圏のなかでは日本は、『倭人』といって中華文化の中心から遠く疎外された『絶域』に属していたという文化的「庶子』意識の劣等感が長期にわたって内在していた。伝統文化の序列は、どこまでも中国-韓国―日本(倭)という厳然たる順序ができあがっていたから、古代から倭は(中略)韓国を上国とあがめていた〉 
笑止というほかはない。
当時も現在も、日本人の誰がこんなことを考えるだろうか。
開いた口が塞がらないとはこういうことを言うのだろう。
それが哲学者で教育人だというのだから呆れる。 
1982年の2月号の『月刊朝鮮』には、『「縮み」志向の日本人』を書いた李御寧氏(1934年生まれ)の次のような文章が載っている。  
〈世界には二大不思議がある。日本に行って日本人一人一人をよく見ると、どこか足りないところがあって、顔かたちはまあまあです。 そんな印象なのに、どうしてこういう人々が集まって、こんな世界的な経済大国を作り上げたのか。それが不思議の一つですね。逆にもう一つ正反対の不思議かあります。一人一人見れば、韓国人は絶対に日本人に遅れておらず、むしろ先に進んでいる人々です。そういう立派な人々が集まって形成した社会がなぜ過去には日本人に支配されるほど弱い国であったのか。これまた不思議の一つですね。結局、日本の集団主義と韓国の個人主義の差が今日の両国の差になったのです〉 
もっと自国の歴史を知ってもらいたいと思うのは、わたしだけではないだろう。
中国・日本の両国にいったい何度侵攻されているのか、何人の人質を送っているのか。
どれほど多大な貢ぎ物を差し出しているのか。それもずっと。
古代は日本に支配されていた史実を、学者であるにもかかわらず、知らないのだろうか。
これほど言葉を軽んじ、推量や思惑でものを言うのは捏造・歪曲に等しい。
他国に対して自国が優秀だという意識が強すぎるのは歴史的コンプレックスを露呈していることになる。 
わたしは韓国の作家たちと何度も酒をともにしたことがあるし友人もいる。
個人的には「好韓」だが、最近の言動は目に余る。
行き過ぎは国家間の友好を損なう。
日韓の大学教授たちのマイノリティ文学に加えてもらい、ブラジルで一緒においしい酒を飲んだこともある。
韓国の大学で講演をしたこともある。
だが、大学でのシンポジウムの後で、日韓の歴史認識のやりとりを目の当たりにして、彼らの多くが自らに関わる書物や白国の「正史」を読んでいないことに気づかされた。 
わたしが知るかぎりでは、日本は公然と韓国を貶めたり、「口撃」したりはしていないはずだ。
それに対して、失礼な言い方だが、韓国は政治家や知識人が、自らメディアに対して悪意ある発言を繰り返している。
それでは政治は前に進まない。
ここに述べられている当時の紀行作家や宣教師たちの声や、中国・日本の歴史書に記されていることを、もう一度探ったらどうか。
自らの「歴史」をなくしたなら、別の史実から探っていくしかないではないか。 
人間は自分の背中は見えない。
糸くずやシャツが出ていれば、人に教えてもらわなければいけない。他者に配慮することや謙虚になることは人間だけの特権であり、やさしさではないのか。 
申一徹教授には、なによりも言葉が歴史をつくるということを強く意識してもらいたい。
哲学者なら哲学という言葉の意味を記憶して、発言してもらわねばならない。
哲学とはギリシア語の「sophia(智)をphilein(愛する)」ことではないか。
物事の根本原理を探求することではないか。 
また、わたしには李御寧氏の文章が知識人の言葉だとはとても思えない。
こういう乱暴な言葉に出会うと、日本人なら誰でも身構えるから、一層嫌韓が増えることを危惧する。 
そもそも「歴史」に国家の悲劇はつきものだ。
日本も原爆を落とされている。
過去に恨みの目を向けるだけでは「歴史」は構築できないはずだ。 
歴史は人類の共通の文化遺産なのだ。
少しでも客観的な目が必要なのは言うまでもない。

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