朝日新聞の「痴性」を問う――古森義久が検証する戦後の論調と安倍政権批判

2019-12-29

2017年11月27日~28日にかけて敢えていくつかの章にわけて発信した章を一つにまとめて再発信する。
以下は昨日発売された日本国民全員が必読の月刊誌の内、WiLLからである。
このような本物の論文が満載されているのである。
21世紀に生きている人間として物事の真相を知らなければならないと考えている人たちは、今すぐに、最寄りの書店に購読に向かうべきだ。
同時に世界中の人は私の翻訳をあなたの周囲の人全員に拡散しなければならないのである。
何故なら、この朝日新聞の痴態は、あなたたちの国のジャーナリズムでも起きていないとは誰も言えないからである。
それどころか、貴方達の国を代表するメディアは、この朝日新聞が日本を代表する知性だなどと思い込んで来たのだから尚更なのである。
この朝日新聞の売国奴と言っても全く過言ではない痴態を利用して来たのが中国、朝鮮半島、そしてドイツの南ドイツ新聞社や米国のニューヨーク・タイムズ紙などだったわけだが、
彼らが、この愚かな新聞社を利用して日本を矮小化し、自分たちの悪辣な目的のために、国際社会に於いて、戦後72年間、政治的な囚人に置いて来た、というこれ以上ない悪辣は、
私が、文明のターンテーブルを明示して登場した時に終焉を迎えた事、神様の鉄槌が下った事を、彼らは知らなければならないのである。
彼等のこれ以上ない悪業(理由は言うまでもないだろう)に対して、地獄の閻魔大王が、最大級の責め苦で待っている事、つまり彼等には天国への門は完全に閉ざされている事を知って、反省するがいい。

ここまで堕ちた朝日新聞の「痴性」 

アホ・バカ・スケベ記者列伝
古森義久
産経新聞ワシントン駐在客員特派員
日本が嫌い、安倍が嫌い、安倍自民に投票した国民も気に入らない。新聞紙でケツを拭けだと。冗談じやねエヤ、朝日で拭いたらケツまでアカくならァ!!
朝日は日本の宝? 
朝日新聞は日本の「宝」であるー。 
長年、朝日新聞の報道や評論を読んできた私は、こんな感想をよく覚えることがある。
実際にその感想の詳述を公表し、同名の本まで出したことさえある。
朝日新聞のそんな特徴づけは、もちろん逆説である。
皮肉といってもよい。
だが、ある意味ではきわめてまじめな指摘である。
私自身がこれまで四十余年も、毎日新聞、産経新聞と、最前線の現役の新聞記者として感じてきた新聞の内側からの考察でもある。 
なぜ朝日新聞が日本の宝なのか。 
それは日本国民にとっての反面教師の価値が高いからである。 
日本が、そして日本国民が、自国の針路や政策について迷ったとき、朝日新聞の社説を一見すればよい。
その論調を眺めればよい。
そして、そこにある朝日新聞の主張と正反対の道を選べばよい。
日本は、まず正しい針路をとることができる。 
これは冗談ではない。
現実に戦後の歴史をみれば、わが日本国は重大な国家の岐路で朝日新聞の主張とは正反対の道を選んできた。
その結果、国は栄え、平和や自由や独立が保たれたのだ。
朝日新聞の求める道を進めば、日本国の破滅にも通じる、たいへんな事態になっていただろう。 
その第一の実例は、1951年9月に日本が調印した対日講和条約である。 
敗戦国の日本は独立回復のため戦争の相手だった諸国と平和条約を結ばねばならなかった。
当時の世界はアメリカとソ連の対立による東西冷戦の最中だった。
日本はアメリカ中心の自由主義陣営に入り、戦争の相手国すべてと講和条約を結ぼうとしたが、ソ連などアメリカと対立する諸国は簡単には応じなかった。 
だが、日本は6年もの占領状態を早く終えるという当然の動機も強く、自由主義陣営の48力国と講和条約を結ぶ道を選んだ。
ところが、朝日新聞はこの「多数講和」に、あえて「単独講和」とのレッテルを貼って猛反対した。
ソ連などを含めて「全面講和」でなければならないと求める大キャンペーンを続けたのだ。 
日本がもし、この朝日新聞の主張に従っていれば、独立はずっと遅れ、ソ連側の共産陣営にも引き寄せられ、アメリカなど西側陣営との関係も悪くなったことは明白だった。
朝日新聞の主張に従わなかったからこそ、日本は自由と民主主義の下での独立を獲得したのだ。
第2の実例は、1960年1月に日本がアメリカとの間で結んだ日米安全保障条約である。
亡国キャンペーン 
同安保条約はいうまでもなく日本の防衛に、アメリカの軍事抑止力を取り込む日米同盟の基礎である。
東西冷戦の中、ソ連の軍事脅威が強まり、日本をも支配圏内に入れようとする圧力は絶えなかった。
その日本の防衛をアメリカに委ねるという合理的な政策だった。 
しかも、この日米安保条約は1951年からの旧安保条約の内容を日本にとって、ずっと有利に改定していた。
新条約はアメリカが日本への軍事力での攻撃や威嚇に対して軍事力によって対抗する、つまり、有事には日本を守ることを公約していた。
そのかわりに日本側は自国内に米軍駐留を認める、という骨子だった。 
この条約に基づく日米同盟は日本にとっては大成功だった。
2017年の現在では多数の政党の中でも、この日米安保条約に反対するのは日本共産党だけとなった。
いまの日本国民の大多数も賛成を表明する。
ところが朝日新聞は、この日米安保条約への猛反対のキャンペーンを展開したのだ。
「米国帝国主義との同盟は危険」などというプロパガンダふうの主張を紙面上、大々的に掲載した。
社説での正面から日米安保条約に反対する主張こそ少なかったが、紙面全体を総動員して、安保反対の政治勢力の主張を宣伝した。
非武装やソ連への接近という政策をもプレイアップしていた。 
以上のように、朝日新聞は日本の独立、日本の防衛という日本国の根幹の政策に反対してきたのだ。
その主張に従えば、日本の独立は大幅に遅れ、アメリカからは離反して、民主主義の基本からも遠ざかっていただろう。
共産主義の独裁のソ連に接近して、当のソ連が崩壊という破目となり、日本の独立国家としての枠組みはガタガタになっただろう。
経済面でも自由主義陣営からの離脱で市場経済の果実を得られず、今日の繁栄からはほど遠い、みじめな状態となっただろう。 
朝日新聞の反面教師の近年の実例としては、ミサイル防衛への反対があげられる。
自国に向かって飛んでくるミサイルを上空で破壊するという防御的なミサイル防衛は、北朝鮮のミサイルの脅威に直面した日本にとって不可欠だろう。
中国のミサイルの脅威も深刻である。 
そんな現況では他国の領土を破壊する攻撃用ミサイルではなく、自国に向けて敵ミサイルが発射されて初めて機能する自己防衛の手段としてのミサイル防衛自体は、いまや全世界で効用が認められている。
日本国内でも各政党も国民の大多数も、賛成するようになった。 
ところが朝日新聞は日本のミサイル防衛に激しく反対してきたのだ。
「中国を刺激する」「日本の軍拡を進める」などという的外れな理由をあげて、「ミサイル防衛を許すな!」というキャンペーンを打ち上げてきたのである。 
これまた、わが日本国は朝日新聞の主張とは正反対の道を進んだからこそ、現在の不十分とはいえ明らかに有用なミサイル防衛網を配備できたのである。 
こうみてくると、私の年来の「日本が国策で迷ったときは朝日新聞の主張と正反対な道を歩めばよい」という指摘も皮肉だけではなく思えてくるが、どうだろうか。
「日本」と「国家」が嫌い 
さて朝日新聞の基本姿勢としては「日本」と「国家」、この二つの概念がそもそも嫌いなのだとみなさざるをえない。 
日本に関しては、朝日新聞はまず日の丸や君が代には徹底して批判的である。
国民が自分を日本人として認める日本人意識(アイデンティティー)をも忌避する。
愛国心は悪の扱いである。
日本の国益や民族という概念も避けようとする。 
朝日新聞は日本固有の領土の竹島や尖閣諸島についても、自らが日本側に立っているという立場を長年、とらなかった。 
「日本と韓国がともに領有権を主張している竹島(韓国名・独島)」「日本と中国がともに領有権を主張する尖閣諸島(中国名・釣魚島)」朝日新聞はこんな表現を長年、使ってきた。
つまり竹島も尖閣諸島も日本国の領土とはみなさず、他人事のように複数の国家が領有権をともに主張する紛争地域だというのだ。
これは日本の立場ではない。
直接にかかわりのない第三国、あるいは国連のような国際機関の立場である。
朝日新聞は自己の足を日本にはおいていないのだ。

朝日新聞の「国家」嫌いの傾向も長年、顕著である。 
2012年夏のロンドン・オリンピックでの日本選手の奮闘に日本中がわいたころ、朝日新聞の記事には以下の記述が出た。 
「個人が背負う「看板」はもはや国家ではなく、国境のないグローバル社会なのだ」 
日本国民がいかに日本選手の活躍に熱狂していても、日本という国家は否定して、グローバル社会をプレイアップするのだ。 
ところが現実の世界での人間集団の主役は、あくまで個別の主権国家である。
どんな人間でも、どこかの国家には帰属している。
だが朝日新聞はその現実をみようとしない。
国家をあくまで国民から離れた存在として描くのだ。 
日本での国家の存在を極端に矮小化、あるいは過激化してしか提示しない。 
だが、相手が中国や韓国となると、朝日新聞はふしぎなことに国家の存在を正当かつ十二分に認めてみせる。
どうやら日本という国家が嫌いなようなのだ。
朝日新聞は日ごろの報道でも「国家権力」という言葉が大好きのようだ。
国家は個人とは異なる次元の存在で、個人を支配し、抑圧するためにある、というニュアンスなのだ。 
ところが日本のような民主主義国家では国の主役はあくまで国民である。
国民が国家の枠組みや役割、そして権力のあり方を決めるのだ。
朝日新聞はこの国民と国家の一体を日本に関しては認めたがらない。
国民が国家を牛耳るという主権在民の現実を無視したいようなのだ。 
朝日新聞の国家へのこの姿勢は共産主義の教理にも似ている。
共産主義では非共産主義の政治体制での国家は否定する。
共産主義支配が成り立っての国家は絶対の正義、ということになる。
あからさまな安倍批判 
さて、朝日新聞のこうしたゆがみや偏向は最近になってますます激しくなった。
日本の防衛に反対し、共産主義を肯定していた「国宝」時代には、根本が錯乱していても、それでも表面上の理屈や一貫性はある程度は感じられた。
だが、最近ではその理屈なる記述も支離滅裂、矛盾、背反という実例が増えてきた。 
まずは至近の総選挙での朝日新聞の紙面を眺めてみよう。
10月22日投票の衆議院議員選挙である。 
朝日新聞はいつも通り、極端な党派性を発揮した。
選挙キャンペーンの事前も最中も、安倍晋三首相の率いる自民党への反対は陰に陽に、一貫していた。
とくに安倍氏個人への批判や非難はあからさまだった。 
新聞の機能には「報道」と「評論」の二つがある。
報道はニュースのお知らせ、実際に起きた出来事をできるだけ客観的に、事実に沿って報じるのが報道である。
これに対して新聞社自体の見解をも含めて、意見を紹介するのが評論である。
この評論には客観性がなくてもよい。
自分の意見を主観的に述べるわけだ。 
だが、現実には新聞各紙では、この報道と評論の区分は曖昧である。客観的なニュースのお知らせの中に、きわめて主観的な偏見や差別が入り混じるという新聞記事の実例は数限りない。
だが、それでも新聞の側はこの報道、評論の区分、客観、主観の区別をつけることにベストの努力は試みるべきだろう。 
さて、こんな基準を念頭にして眺めると、今回の選挙報道では朝日新聞の偏向が突出していた。
病的にも映る自民党忌避、安倍嫌いが紙面の全体に満ち満ちていたのだ。
その結果、自民党や安倍首相にとって有利になり得る出来事は事実でも、重要でも、無視、軽視する結果となる。 
この偏りを最もあからさまに感じたのは、おもしろいことに総選挙結果が判明した後の朝日新聞代表の評論記事だった。
日本国民の大多数が安倍首相の自民党を支持する審判を下した後のはずなのに、いかにもまだ、その審判が下されていないかのような内容の評論なのだ。
自分たちの思いどおりには選挙が展開しなかったことを認めたくない幼稚な負け惜しみを感じさせられた。

「安倍一強」の苦い思い 
朝日新聞10月23日朝刊の一面に堂々と載ったこの記事は「ゼネラルエディター兼東京本社編成局長中村史郎」という筆者名だった。
編成局長というのは紙面作成の最高責任者とみてよいのだろう。
ちなみに私はこの中村氏を個人的に存じあげている。
十数年前、北京在勤の特派員同士だった。
なかなか感じのよい、さわやかな記者だった。
だが、それとこれとは別であること、言を俟たない。 
この総選挙総括の記事はまず「『1強』政治 見直す機会に」という見出しだった。
この記述では選挙の前の記事を思わせる。
いまの自民党政権の政治を「1強」と評すことの適否はともかく、現状を見直す機会に、という意味だろう。
だったら当然、これからの選挙にのぞむ、というスタンスを思わせる。
だが、実は選挙が終わっての総括なのに、いかにも日本の政治をこれから「見直す機会に」というのだ。 
選挙結果を素直に認めたくない悔しさが露骨である。
負け惜しみとは、こういう態度を指すのかとまで感じた。 
記事の内容を紹介しよう。 
〈国政選挙で連勝街道を走ってきた安倍首相は、今回も圧勝した。しかし、内心苦い思いが残ったのではないか。首相は「まだ私は自民党に厳しい視線が注がれている」と認めた。「安倍1強」の変化を求める民意の兆しを感じたに違いない〉
以上が書き出しだった。
安倍氏は「圧勝」したのに、「内心苦い思いが残った」というのだ。 
なぜ、そんなことが言えるのか。
だれでも圧勝すれば、うれしいだろう。
だが、そうではないと書く中村記者の「苦い思い」が伝わってくる自己閉塞ふうの記述である。 
そのうえで「『安倍1強』の変化を求める民意」だというのだ。
いまの政治状況を「安倍1強」と評するのは朝日新聞の反安倍、反自民党のスタンスからの主観的な描写である。
今度の選挙で問われたのは当然ながら政治の現状だった。
その現状を国民の大多数が認めたのだ。
現状の変化を求めない民意が証明されたのだ。 
つまりは「安倍1強」なる状況の変化を求めない民意の表明が今度の総選挙の結果だったのだ。
であるのに「変化を求める民意」を強調するのは、朝日新聞の単なる願望に過ぎない。
客観的な論拠はない。 
さらに続きを紹介しよう。 

〈首相自らが招いた逆風下で、安倍政治そのものが問われた選挙だった。(中略)「安倍ブランド」にかつての強さはない。(中略)有権者は引き続き自公に政権を託したが、一方で長期政権に対する飽きや嫌気を感じている〉 
これまた矛盾だらけの記述である。
「安倍ブランド」は、いま国際的にも強いではないか。
有権者が「長期政権に対する飽きや嫌気を感じている」ならば、なぜ、その大多数がその長期政権への票を投じたのだろうか。 
そもそも中村記者が断定する有権者全体の「飽きや嫌気」の存在はどんな根拠からなのか。
ただ自分の願いだけ、悔しさだけからの記述ではないのか。 
〈圧倒的な与党の議席獲得と、民意のバランスや濃淡とのズレが、広がっているのだ。首相は、まずその現実を認識する必要がある。おごりやひずみが指摘され続けた「1強」政治を続けるのか。政治姿勢を見直す機会とすべきではないか〉 
これまた一方的な無根拠の主張である。
現実には民意の結果が与党の議席獲得なのである。
民主主義の選挙の真実だろう。
だが、中村記者はその真実を認めない。
むしろ真実を逆転させ、勝手に「ズレ」を主張する。
ズレを語るならば、ぜひとも朝日新聞と民意とのズレを考えてほしい。

国の守りは軍事だけではない 
外交や安全保障など対外関係については、情報の蓄積が重要だ。 
中国共産党の戦略や対日工作の歴史を知らずに、中国を幾ら批判しようが、事態は改善しない。
相手がどのような戦略でどういう工作を仕掛けてくるのかを正確に理解しなければ国益を守りようがないのだ。 
アメリカでは冷戦が終わった直後の1992年から連邦議会が国家プロジェクトとして冷戦史研究を開始している。
アメリカの対外情報機関であるCIAも『中国人の交渉術』(産経新聞外信部訳で文藝春秋から出ている)という本を出して、中国共産党がいかなる工作を仕掛けてきたのか、詳細な分析をしている。 
ところが、これほどまでに中国共産党から工作を受けていながら、なぜ日本政府や国会は、中国共産党の対日工作についての研究に取り組まないのだろうか。 
戦後の日本をおかしくしたのは占領政策もあるが、それと同じくらい戦前からの中国共産党の対日工作の悪影響がある。
対日占領政策だけを見ていては、戦後の日本の歪みは理解できない。 
アメリカでは、インテリジェンス関係者や保守派の中に、ルーズベルト民主党政権時代の米中関係について全面的に見直そうとする動きがある。
こうした動きと連動して中国共産党の対外工作を研究していきたいものである。

〈反省、おわび、謙虚、丁寧な説明……。首相はこう繰り返したが、これから言行一致が問われる。(中略)この先の民意の行方を首相が読み誤れば、もっと苦い思いをすることになるだろう〉 
以上が、この記事の結びだった。
中村記者はあくまで今回の選挙結果を論じることを避け、「これからの言行一致」へとホコ先を転じる。
首相への民意の支持が証明された直後に「この先の民意の行方」だけを論じる。
首相が明らかに苦い思いを減らした選挙だったのに、「もっと苦い思い」を根拠もなく強調する。 
それほどまでに自分たちの非や負を認めたくないのか。
敵の勝利を認めたくないのか。
一瞬でも、朝日新聞こそが「民意の読み誤り」や「もっと苦い思い」を味わうべきだという自省はわかないのだろうか。

同じ総選挙の結果を論じる特異な記事がさらにあった。 
朝日新聞がその独自の主張を発信する際にナチスをよく引用することは、すでに広く知られている。
目の前の自分たちが嫌いな政敵を絶対悪とされているナチス・ドイツやヒトラーに重ねて、読者に同一視させようとする狡猾だが幼稚なレッテル手法である。 
その朝日新聞が同じナチス・ドイツでも今度は「国家元帥ゲーリング」を持ち出して、安倍晋三首相に重ねるという極端な筆法をとってきたのに、呆れ果てた。
あまりに非現実的、あまりにゆがんだ「安倍叩き」だからだ。
こんな手あかのついたナチス利用の方法以外に、もう少し説得力のある自民党や安倍氏への批判はできないのか、ともいぶかった。

朝日新聞の「安倍首相=ナチス」定番の今回の記事は10月30日朝刊の「政治断簡」というコラムだった。
これまた総選挙の総括ふうの記事だった。
見出しは「『脅威』に屈しないリベラルを」とあり、筆者は編集委員の松下秀雄記者となっていた。
その趣旨はもちろん自民党非難、とくに安倍首相への悪口雑言に近い非難である。
その記事のハイライトを紹介しよう。 
〈ナチス・ドイツの国家元帥、ゲーリングはこう語っている。「我々は攻撃されかけている」と訴え、「国を危険にさらしている」と平和主義者を非難すれば、人々は意のままになる。このやり方は、どんな国でも有効だー自由な社会でも、狂気の指導者がいなくても、不安に働きかける手法は通用する。衆院選の光景をみて、この話を思い出し、胃液が逆流するような苦さを感じた。安倍晋三首相は各地の街頭で、真っ先に「北朝鮮の脅威」を訴えた。こんな演説、時の首相から聞いた覚えはない。むろん戦争をしたいのではなく、票が増えると踏んだのだろう。麻生太郎財務相は自民大勝の選挙結果には「明らかに北朝鮮のお陰もある」と吐露している〉 
ゲーリングというのはナチスはナチスでも、百年も前の1918年に終わった第一次世界大戦でドイツ帝国軍のパイロットとして活躍した軍人である。
その後、ナチスに加わり、ヒトラー政権の中枢となったが、とにかく古い。
だが、松下記者はいまの民主主義の日本の安倍首相の言動は、そんな百年近く前の帝国ドイツやナチスの軍人と同じだと断ずるのである。


松下記者は今回の総選挙で安倍首相の演説を聞いて、そのゲーリングの言葉を思い出し、「胃液が逆流するような苦さを感じた」というのだ。
本当だろうか。
同記者はいつもゲーリングの言葉を胸にして、目の前の日本の政治をみているのだろうか。 
なによりも、このゲーリングと安倍晋三との重ね合わせが愚の骨頂である。
ヒトラー時代のドイツと、いまの日本と、時代も環境もあまりに異なる。
共通項などなにもない。
なんの関係もない二人の人物をいま重ね合わせるのは、ひとえに松下記者の頭の「安倍憎し」のオブセッション(妄念)と思えてくる。
安倍叩きのためなら、悪魔でも引き合いに出すという、記者としての思考のゆがみの結果だろう。 

しかも松下記者が引用するゲーリングの言葉は、自国への「攻撃」や「危険」は実在しないのに、ただ戦争をしたいために煽るのだという意味である。
そして安倍首相の説く「北朝鮮の脅威」も実在しないと示唆している。
実在しないのに「票が増える」とみて、その脅威を訴えている、というのだ。 
松下記者は日本にとっての北朝鮮の脅威は実在しないのに、安倍氏が得票のために、いかにも実在するかのように、ウソをついていると述べているのに等しいのである。
だからこそ「胃液が逆流する」というのだろう。 
では、松下記者は日本に北朝鮮の核兵器や長距離弾道ミサイルの脅威は存在しない、というのか。
自民党が今回の総選挙で大勝したのは、存在しない脅威を存在するとして虚偽の主張を続けたからだというのか。

松下記者のコラムは、さらに以下のようなことを結びとして述べていた。 
〈狙いはどうあれ、首相が「北朝鮮の脅威」を叫べば、在日コリアンが敵視されないか。彼らを忘れているのだろうか〉〈世界に「自国優先」、白人至上主義に類する「多数派優先」の自己中心政治が広がっている。日本も似たようなものだ。こんな時こそ、多数派か少数派かにかかわらず、一人ひとりの生、自由、人権を大切にしなければ!不安にあおられ、手放さないようにしなければ!〉 
前記もまた混乱した独善の記述と呼ぶしかない。
日本全体に迫る「北朝鮮の危機」を在日コリアンなる存在への思惑のために、囗にしてはならない?…冗談ではない。
在日コリアンといっても、韓国系の人たちが多いだろう。
いまの「北朝鮮の核の脅威」は日本在住の朝鮮系の人たち全体にも脅威である。
しかも、その朝鮮系には北朝鮮と韓国系とがあり、韓国がいまの北朝鮮の核武装に脅威を覚えると同様に、在日の韓国系の人たちも懸念を覚えているだろう。 
「白人至上主義に類する多数派優先」が日本にも広がるから、個人の自由や人権が侵されると断じる記述も噴飯ものである。
日本のどこに白人至上主義の類似があるというのか。 
そして松下記者は、民主主義の基本である多数決の原則をも排してみせる。
国民の多数派の意思で国や政府が運営されるという現代の民主主義政治の鉄則が、自動的に少数派の個人の自由や人権の弾圧につながる、という意昧にもとれるのだ。
多数派を無視して、少数派を優先せよ、と主張するにも等しいのである。

朝日の痴論 
要するに松下記者も朝日新聞も、日本国民の多数派が今回の総選挙で安倍首相の率いる自民党に票を投じ、政権の継続への願望を明示したことが、どうにも受け入れられないのだろう。
そんな態度は民主主義の審判への冒涜、少数派の独断専行的な認識と呼ぶのが、やはり適切なようである。 
朝日新聞のこの種の安倍憎しのオブセッション(妄念)は手を替え、品を替え、紙面に頻繁に登場してくる。 
総選挙の2ヵ月ほど前の8月11日の朝刊には、以下の趣旨の記事が載った。 
日本は北朝鮮のようになってきた。
なぜなら日本人が安倍晋三首相をほめるからだー。 
悪い冗談なのか。
北朝鮮のプロパガンダなのか。
あるいは常軌を逸した人の独自の「考察」なのか。
まじめにいぶかった。
自分と同じ日本の新聞記者に、こんな「意見」を堂々と書く人物がいることは、にわかに信じられなかった。 
同日朝刊の10面、オピニオンというページに載ったコラム記事だった。
「社説余滴」という通しのタイトルがついているから、社説を書く論説委員たちの順番のコラムなのだろう。
筆者は国際社説担当の箱田哲也論説委員とされていた。
記事の見出しは「北朝鮮化する日本?」だった。
たとえ「?」がついていても、この見出しが記事のすべてを物語る。日本が北朝鮮のようになっている、という趣旨なのだ。
この記事の最重要部分はその末尾だった。
記事の総括である。
以下の記述だった。 
〈ソウル滞在中、日本通の韓国の重鎮とそんな話をしていると、こう切り返された。「ある日本のトップクラス官僚など、口を開けば安倍首相はすばらしいと絶賛する。何かに似ていると思ったら、『偉大な指導者、金正日同志は』というあれだ。もう韓国を通り過ぎたんじゃないか」〉 
以上の記述から、この記事全体の「北朝鮮化する日本」という見出しが出てくるわけだ。
いまの日本が北朝鮮のようだというのだ。
しかも政治体制に関して、というのである。
「韓国の重鎮」の言葉を引用し、記事全体の結びとして、その後には自分の言葉はなにもつけていない。
つまり記事全体の主張の総括としているのだ。 
なんという短絡、なんという歪曲、なんという屁理屈だろうか。
現在の日本が北朝鮮と同じだというのである。
いや「理屈」という表現さえも値しない。
痴論、稚論とでも呼ぶべきか。
その唯一の論拠は「韓国の重鎮」の一言なのだ。
日本の官僚が自国の首相をほめたから、日本は北朝鮮と同じだというのだ。
いやはや朝日新聞の社説はこうした思考回路の人物によって書かれているのか。

特異な朝日のコラム 
日本と北朝鮮がその政治体制や国家指導者のあり方でどれはどの差異があるか、いまさら説明の要もないだろう。
定着した民主主義、主権在民の指導者選び、個人の基本的な権利、言論や結社の自由という諸点では世界トップ級の日本と、カルト的個人独裁、個人の権利の剥奪、収容所での大量弾圧、内政、外交両面での無法の北朝鮮と、その断層はまさに天と地である。
この基本的な差異を無視して、「韓国の重鎮」が発した片言隻句を金科玉条として受け入れ、日本は北朝鮮と同じだと日本の読者に喧伝する。
朝日新聞の箱田哲也論説委員の感覚はどうなっているのか。

ちなみに、このコラム記事の残りの部分も、さらりと要約して紹介しておこう。
箱田記者は韓国に取材に行って、韓国は「現職大統領を革命的に、しかも非暴力で引きずり下ろした」のに、「日本社会はどうしてかくも平穏なのか」といぶかったというのだ。
つまりは日本国民が安倍首相を、なぜ革命的にひきずり下ろさないのか、という疑問を呈しているのだ。
同時に日本国民に革命的な安倍政権打倒を煽っているとも響いてくる。
そのうえで箱田記者は「日本が韓国化した」という見解を熱心に紹介していた。
韓国では何もかも「日本が悪い」と批判する。
最近の日本は、その韓国と同じようになった。
つまり「なにもかも韓国が悪いと批判する」という単純な韓国観が広がった、というのだ。
これまた日本の現実を無視した主張である。
この記事では日本は韓国化し、同時に北朝鮮化したことになる。
こんな考察はどうみても日本人の普通の視点ではない。
病んでいるのか、あるいは、そもそも立脚地点が最初から日本側にはないのか、そうだとすれば、全体の説明がつくようにも思える。

朝日新聞の安倍叩きの特異な記事の実例は限りがない。
特異中の特異だと思ったのは安倍晋三首相を「スケベ」と決めつけている記事だった。2017年3月19日朝刊の政治面のこれまた「政治断簡」というタイトルのコラム記事、筆者は政治部次長の高橋純子と記されていた。
明らかに女性である。
この記事の見出しは「私にもスケベ心はありますが」となっていた。
この「私」は筆者の高橋記者のことだろう。
だが、記事の内容は安倍首相をスケベと呼んでいるのだった。
私はまず「スケベ」という言葉が堂々と見出しになっているのに、驚いた。
スケベとは辞書によると、「助平、異性に対して異常に好奇心を示すこと、及びそうした人、つまり異性を異常なほど好きな好色、好色漢」を指す。
しかも言葉自体が下品であり、卑俗である。公式の場で使う人はまずいない。
このへんは主観の違いがあるだろうが、なにか汚らしい、いやらしい言葉でもある。
他者を「彼はスケベだ」と呼べば、ののしりやからかいになるだろう。 
私は長い新聞記者生活で「スケベ(助平)」が大手新聞の記事中にふつうの記述として出てきたことや、まして見出しになっていたのをみた記憶がない。
卑語、俗語の範疇だから、新聞で避けられても、ふしぎはない。
だが、この高橋記者の記事には、以下のような記述があった。 
〈人間は基本、スケベだ。私の人生、内なるスケベ心との闘いだったと言ってもよい。小さな拍手をもらったら、もっと大きな拍手が欲しくなる〉 
そして同記事は、安倍晋三首相と森友学園の龍池泰典氏の批判へと移っていく。

病的な粘着質 
安倍首相は最高権力者で、褒められることを喜び、龍池氏も権力者を喜ばすことに夢中になると述べていく。
安倍、龍池両氏の間には緊密なつながりがあったという前提での記述なのだ。
安倍氏はそれを否定するが。
そのうえでこの記事は〈スケベはスケベを呼ぶ〉と書き、安倍、籠池両氏をスケベ同士だと断定していた。
このへんは論理不明、意味不明の記述も多いのだが、安倍首相を「スケベ」とののしっていることは明確である。
朝日新聞記者たちがあらゆる表現で安倍首相をけなし、叩くこと自体はふしぎではない。
だが、一般ではまず使わない汚い言葉の「スケベ」を、べちゃりとしたレッテルとして、あえて首相に貼りつけるところは、異様、いや、病的ななにかまで感じさせられた。 
異様とか病的とか、他者の記事を描写するには非礼な言葉だろう。
だが、そうとしか感じられないのだ。
実はこの記事の筆者の高橋純子記者は、以前にもきわめて異様で病的な一文を書いていたのだ。

朝日新聞2016年2月28日朝刊の第四面、やはり「政治断簡」と題するコラム記事だった。
見出しは「だまってトイレはつまらせろ」という記述だった。
安倍政権に抵抗するためには公共のトイレで尻を拭く際に新聞紙をわざと使って、そのトイレをつまらせろ、という趣旨の記事だった。
だから私はびっくり仰天した。 
私の長い新聞記者生活でも、こんなひどい記事は読んだ記憶がなかった。
記事の冒頭は以下だった。 
〈「だまってトイレをつまらせろ」このところなにかにつけてこの言葉が脳内にこだまし、困っている。新進気鋭の政治学者、栗原康さんが著した「はたらかないで、たらふく食べたい」という魅惑的な夕イトルの本に教えられた〉 
高橋記者はまず「トイレをつまらせる」ことを実際に考えている自分の脳を強調するわけだ。
そして「働かないで、たらふく食べたい」という本のタイトルが魅惑的なのだという。そのなにが魅惑的なのか。普通の感覚とは思えない。
記事はさらに同書の内容として工場経営者が工場のトイレにチリ紙を完備しない場合、労働者はどうすべきか、という問いかけを紹介する。
会社側との交渉や実力闘争という方法もあるが、ベストは「新聞紙等でお尻を拭いて、トイレをつまらせる」ことだという。 
そしてさらにこう書くのだ。 〈チリ紙が置かれていないなら、硬かろうがなんだろうが、そのへんにあるもので拭くしかない。意図せずとも、トイレ、壊れる、自然に。修理費を払うか、チリ紙を置くか、あとは経営者が自分で選べばいいことだ〉
つまりは工場内の共用、公共のトイレを壊せというのだ。
意図的な行為なら刑法261条の器物損壊罪となる。
だからこの記事は普通に読めば、犯罪行為をも扇動しているのだ。

朝日新聞は正気か 
ここで当然、ではなんのために、という疑問がわくだろう。
高橋記者は記事の真ん中の部分で、「おのおのがお尻を何で拭こうがそもそも自由(中略)という精神のありようを手放したくはない」と話を進める。
そして最後の部分でやっと標的を示すのだ。 
〈安倍晋三首相は言った。「この道しかない」 固有名詞は関係なく、為政者に「この道しかない」なんて言われるのはイヤだ。近道、寄り道、けもの道、道なんてものは本来、自分の足で歩いているうちにおのずとできるものでしょう?はい、もう一回。だまってトイレをつまらせろ。ぼくらはみんな生きている〉
さて、この部分を普通に読めば、「イヤな為政者」の安倍首相に対抗するにはトイレをつまらせろ、という呼びかけである。
そのためには、大便をした後に新聞紙を使え、というわけだ。
それが安倍政権への反対活動の最善の方法だというのだ。
比喩やたとえにしても、新聞記者が自分の生命でもある新聞を尻拭きに使えという無神経、朝の食卓でも読まれる新聞に、大便の事後処理を話題にする繊細さの欠落、そしてクソも味噌も安倍政権叩きに使う乱心ぶり…朝日新聞さん、正気なのですか、問いたくなる。

古森義久
1941年、東京生まれ。産経新聞ワシントン駐在客員特派員。慶應義塾大学経済学部卒業。ワシントン大学留学。毎日新聞社時代にサイゴン、ワシントン両特派員などを歴任。81年、米国カーネギー財団国際平和研究所上級研究員。87年、産経新聞社入社、ロンドン、ワシントン支局長、中国総局長を経て、論説委員、国際問題評論家として活躍。麗澤大学特別教授。著書に『アメリカでさえ恐れる中国の脅威!』(ワック)、『ベトナム報道1300日』(講談社文庫)、『トランプは中国の膨張を許さない』(PHP研究所)、『戦争がイヤなら憲法を変えなさい』(飛鳥新社)など多数。

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