武漢ウイルス禍収束後の世界を左右する中国の責任回避と国際機関支配

櫻田淳氏の産経新聞「正論」をもとに、武漢ウイルス禍収束後の国際秩序を考える。中国共産党政府の責任回避、WHOなど国際機関への影響力、米中間の「中国ウイルス」「武漢ウイルス」という呼称をめぐる対立は、単なる言葉の問題ではなく、来るべき世界の姿を左右する国際政治の問題である。

2020-04-07
武漢ウイルス禍収束後の世界は…中国の責任回避の対外姿勢…国際機関への影響力止めよ…呼称「子供の喧嘩」にあらず。
以下は今日の産経新聞の「正論」に、武漢ウイルス禍収束後の世界は、と題して掲載された東洋学園大学教授櫻田淳の論文からである。
武漢ウイルス禍の拡散を前にして、世界保健機関、WHOのテドロス・アダノム事務局長は、3月11日に「パンデミック」を宣言し、13日には「欧州は今やパンデミックの震源地となった」と語った。
中国の責任回避の対外姿勢
WHOの「パンデミック」宣言直前、習近平中国国家主席が武漢を訪れ、ウイルス禍の「国内封じ込め」を宣言して以降、中国共産党政府の対外姿勢は、初動対応の失敗により災禍を諸国に広げた事実を糊塗し、早期に「封じ込め」を成したと自負をもって自らの優位を誇示するものになっている。
中国メディアの中に、ウイルス禍対応に苦慮する欧米諸国に「反省」を求めるといった趣旨の論調さえ出ているのは、その自負の表れであるといえよう。
ただし、こうした中国の半ば責任回避と一体となった倨傲の対外姿勢は、ウイルス禍収束後、人々の目の前にどのような世界が出現するかという問いを突き付ける。
それは、「日米両国や欧州諸国の呻吟を尻目に、ウイルス禍から抜け出したように見える中国が、自らの意向を通しつつ、他国に対して偉そうに振る舞っている」世界なのか。
「それでも、そうした中国の対外姿勢が抑えられている」世界なのかということである。
国際政治学者のウォルター・ラッセル・ミード米バード大教授は、米『ウォールストリート・ジャーナル』紙、日本語電子版、3月17日配信、に寄せた論考で次のように書いている。
「中国が自国の世界的な地位を強化するため、今回の危機を利用しようと望んでいる兆候が既に存在する。…援助の供与と中国型統治モデルが優れているとするプロパガンダは、多くの国で賛同者を得ることになるだろう。もし米国とその同盟国が国際的関与から離脱状態であればなおさらそうだ。今回の危機が継続するなかで、中国は世界中の政府との間で安全保障、経済、政治面での関係を強化する機会を得ることになる。…リセッションが直撃し、パンデミックが襲いかかるなか、米国、日本、欧州のリーダーたちは、自国内と同時に海外での問題にも効果的に対応する方法を見いださなければならない。もし西側諸国が嵐の過ぎ去るまで内向きの姿勢をとるのであれば、嵐が去り、変化した世界を振り返るときに目にする状態は、われわれの気に入るものではないかもしれない」
ミード教授が指摘するように、中国流の権威主義価値意識が幅を利かせる世界が、日本を含む「西方世界」諸国にとって、受けいれられないものであるならば、一時は韓国、イラン、イタリアに並ぶウイルス禍の「焦点」にされた日本にとっては、次に挙げる2つのことを考慮する必要がある。
国際機関への影響力止めよ
第1に、中国がWHOに類する国際機関に影響力を行使し、その「権威」を半ば私している疑念が濃厚になった以上、そうした流れを止める対応は適宜、打たれなければならない。
そもそも、WHOやUNESCO、国連教育科学文化機関、に類する国連傘下の15専門機関は、第二次世界大戦後の「リベラルな国際秩序」を支える枠組みとして位置付けられたものであるけれども、現在では、その4つの統括ポストに中国出身者が就いている。
こうした現状は、それ自体が「リベラルな国際秩序」の動揺を示唆する。
過日、WIPO、世界知的所有権機関、事務局長選出に際しては、日本や欧米諸国は一致して中国人候補の選出を阻止したけれども、これに類似した努力が一層、大事になってこよう。
呼称「子供の喧嘩」にあらず
第2に、武漢ウイルス禍の「起源」に絡む米中両国の非難の応酬に際しても、曖昧にして傍観者的な姿勢は取るべきではない。
WHOがCOVID-19と命名したウイルスに関して、「米軍が武漢に持ち込んだ」と唱えた中国外務省報道官の発言を受けて、ドナルド・トランプ米国大統領は、それを「中国ウイルス」と呼んだけれども、そこには、ウイルス禍を諸国にまき散らした中国共産党政府の責任を不問に付さないという米国政府の政治上の意志が反映されている。
故に、中国共産党政府がどれほど反発しようとも、米国政府は今後、「中国ウイルス」や「武漢ウイルス」という呼称を続けるのであろう。
こうしたウイルス呼称に絡む米中両国の非難の応酬は、危機の最中に相応しからざる「子供の喧嘩」の次元で理解してはなるまい。
現下の米中確執の行方は、来るべき世界の姿に直接に関わっている。
「何かをどのように呼ぶか」は、「政治」の最も原初的な営みなのである。
このようにして、武漢ウイルス禍対応は、専ら公衆衛生や経済の観点ではなく、既に国際政治の観点からも語るべき案件になっている。
今、世の人々が自問すべきは、「どのような世界に生きたいか」ということである。
さくらだ じゅん

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