村上春樹批判の15年――298件、30ページに及ぶ文明批判の記録

2026年7月9日
今日、私はアメーバ内で「村上春樹」と検索した。
我ながら驚いた。
検索結果は298件に及び、最終30ページまで、私の村上春樹批判が延々と続いていたからである。
しかも、確認できる最初の批判論文の日付は、2011年5月8日だった。
つまり、私は少なくとも2011年から2026年に至るまで、15年にわたり、村上春樹という存在、彼を取り巻く日本の文芸空間、朝日新聞的な似非モラリズム、そして戦後日本の誤った知性について、本質的な批判を続けてきたのである。
私が村上春樹に対して、長年にわたり、世界で最も厳格かつ本質的な批判を展開してきたことは、アメーバ内検索で「村上春樹」と検索するだけでも明らかである。
検索結果は298件に及び、2019年、2020年、2022年、そして2026年の記事まで、地平線のように続いている。
この事実を見れば、最新刊に対する私の指摘――それが私の論考から何らかのインスピレーションを受け、同時に私へのリベンジとして書かれた可能性があるという見立て――が、決して荒唐無稽なものではないことが分かる。
少なくとも、村上春樹をめぐる言論空間において、私の批判が無視できない量と質を持って存在してきたことだけは、動かしようがない。
これは、単なる文学批判ではない。
村上春樹という一人の作家を通して、戦後日本の文芸空間、朝日新聞的な似非モラリズム、自虐史観、南京問題、永久謝罪論、中国と韓国による反日プロパガンダ、国連やユネスコの政治性、そして戦後派知識人の思想的終焉を問うてきた、文明批判の記録である。
私は、村上春樹が売れているから批判してきたのではない。
彼が有名だから批判してきたのでもない。
彼が、戦後日本の誤った知性、朝日新聞的な偽りの道徳主義、歴史認識の幼稚さ、そして本物を見失った日本の文芸空間を象徴する存在になっていたから、批判してきたのである。
最終30ページ目の検索結果は、そのことを証明している。
これは、私の思いつきではない。
これは、一時の感情でもない。
これは、15年に及ぶ一貫した批判の蓄積である。
これから私は、この検索結果に現れている村上春樹批判の主要な論文を、順次、再掲載していく。
読者は、それらを読むことで、私の批判が、いかに早い時点から、いかに深く、いかに本質を突いていたかを知るだろう。
そして同時に、村上春樹を過剰に持ち上げてきた日本のメディア、文芸評論、朝日新聞的言論空間が、いかに貧しく、いかに危ういものであったかを知るだろう。
隠れた真実、隠された真実に光を当て、それを表現するから芸術家は貴い存在なのである。
その意味で、私が問い続けてきたのは、村上春樹という一人の作家の問題ではない。
真実を語る者とは誰か。
芸術とは何か。
知性とは何か。
文明とは何か。
この根本問題である。
最終30ページ目のスクリーンショットを、ここに証拠として添える。
村上春樹批判の15年は、ここから改めて始まる。

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