公然と嘘を書く朝日新聞的な偽善こそが安酒なのである
公然と嘘を書く朝日新聞的な偽善こそが、安酒なのである。
今日、私はアメーバブログ内で「村上春樹」と検索した。
我ながら驚いた。
検索結果は298件に及び、30ページにわたって延々と続いていたからである。
これは、私が村上春樹について、単発の感想や一時的な批判を書いてきたのではないことを示している。
少なくとも2011年5月8日から、2026年に至るまで、私は15年にわたり、村上春樹という存在、彼を取り巻く日本の文芸空間、そして朝日新聞的な似非モラリズムについて、本質的な批判を続けてきたのである。
最終30ページ目に現れていた記事群は、その事実を確認する上で、極めて重要だった。
2011年8月12日の「そんなことが、小説家として与えられた才能でなんか在るわけはないのである。」では、私は、村上春樹の性描写を「嫌味がない」「美しい」「小説家としての天分」などと称揚する評者の知性の欠如を批判していた。
性を下卑ずに語ることは、小説家としての特別な天分ではない。
それは、知性ある者にとっての常識に過ぎない。
この一文は、村上春樹個人への批判であると同時に、彼を過剰に持ち上げてきた日本の文芸評論空間への批判であった。
2014年8月12日の記事では、私は、佐々井秀嶺師のような本物の人物が民族的英雄として遇されるべきであり、村上春樹のような存在を、ノーベル賞の季節になるたびに大騒ぎして持ち上げる日本のマスメディアの愚かさを批判していた。
一つの国家に本当に必要なものは、商業宣伝によって作られた有名人ではない。
国家に必要なのは、その国の文明と精神を支える本物の人物である。
2014年10月11日の「偽りの道徳主義――公然と嘘を書くからである」では、村上春樹のいわゆる「安酒」発言を、私は根本から批判していた。
村上春樹は、中日韓の領土問題などをめぐる世論の高まりを「安酒」にたとえた。
しかし、私に言わせれば、本当に安酒を飲み続けてきたのは、朝日新聞的な偽りの道徳主義に酔ってきた村上春樹自身である。
公然と嘘を書く朝日新聞的な偽善こそが、安酒なのである。
その安酒を飲み続けてきた人物が、他者に向かって「安酒に酔うな」と説く。
これほど倒錯した話はない。
2016年1月14日の「極めて不安定な今の世界をもたらしたのは、自分たちであることを知らなければならないのである。」では、私の村上春樹批判は、単なる文学批判を超えて、戦後日本の文明批判へと完全に接続していた。
私は、大江健三郎や村上春樹を、朝日新聞を読んで育った似非モラリストの極みとして批判した。
彼らの見せかけのモラリズムを本物だと信じていれば、日本にも、日本人にも未来はない。
彼らの歴史認識は幼稚園児以下である。
これは罵倒ではない。
歴史を知らない者が、見せかけの道徳だけで世界を語ることの危険を指摘したのである。
こうして確認してみれば、私の村上春樹批判は、明確な流れを持っている。
2011年には、性描写をめぐる文芸評価の異常性と知性の欠如を批判した。
2014年には、朝日新聞的偽善と村上春樹の「安酒」発言を批判した。
2016年には、村上春樹を、戦後日本の似非モラリズムと歴史認識の幼稚さの象徴として批判した。
これは、好き嫌いの問題ではない。
これは、文学の問題にとどまらない。
これは、日本の言論空間、日本の戦後精神、日本の文明の問題である。
アメーバ内検索で「村上春樹」と検索すれば、私の記事は298件、30ページにわたって続いている。
確認できる最初の批判論文の日付は2011年5月8日である。
この事実だけでも、私が村上春樹に対して、世界でも稀なほど長期にわたり、厳格かつ本質的な批判を展開してきたことは明らかである。
したがって、村上春樹の最新刊について、私が、それは私の論考から何らかのインスピレーションを受けたものであり、同時に私に対するリベンジの意味を帯びている可能性がある、と見ることは、決して荒唐無稽なものではない。
少なくとも、そのように考えるに足るだけの、長大な批判の蓄積がここに存在している。
私が村上春樹を批判してきたのは、彼が売れているからではない。
彼が有名だからでもない。
彼が、戦後日本の誤った知性、朝日新聞的な偽りの道徳主義、歴史認識の幼稚さ、そして本物を見失った日本の文芸空間を象徴する存在になっていたからである。
村上春樹をめぐる私の批判は、村上春樹一人に向けられたものではない。
それは、彼を必要以上に持ち上げ、彼の見せかけの道徳をありがたがり、本物の知性と本物の人物を見失ってきた日本のメディアと文化空間全体への批判である。
最終30ページ目まで確認した今日、私は改めて確信した。
私の村上春樹批判は、長年にわたる一貫した文明批判であった。
そして、それは今もなお有効である。