隠れた真実、隠された真実に光を当て、それを表現するから芸術家は貴い存在なのである
隠れた真実、隠された真実に光を当て、それを表現するから芸術家は貴い存在なのである
2017年9月22日と9月24日の二つの章は、私の思想の核心を示している。
この頃になると、私の村上春樹批判は、もはや一作家への批判ではなくなっていた。
私は、真の芸術とは何か、という定義そのものを提示していたのである。
その定義が、次の一文である。
隠れた真実、隠された真実に光を当て、それを表現するから芸術家は貴い存在なのである。
この一文は、私の文学観であり、芸術観であり、文明観でもある。
芸術とは、ただ美しい文章を書くことではない。
耳ざわりのよい言葉を並べることでもない。
人々がまだ知らない真実、人為的に覆い隠されてきた真実、歴史の闇に埋もれた真実を発見し、それを表現することこそ、芸術家の使命なのである。
この意味で、高山正之は真の芸術家である。
彼は、戦後世界の隠された真実を掘り起こし、日本人にも世界にも伝え続けてきた。
彼の論文を購読するためだけにでも、日本国民全員は、今すぐに最寄りの書店に向かわなければならない。
私はそう書いた。
それは、決して誇張ではなかった。
高山正之は、戦後の世界で唯一無二のジャーナリストである。
彼は、朝日新聞や欧米メディアが書かないことを書いてきた。
彼は、日本人が知らされてこなかった事実を、日本人に取り戻してきた。
彼は、隠れた真実、隠された真実に光を当て、それを表現してきた。
だからこそ、私は彼を真の芸術家と呼ぶのである。
一方、村上春樹はどうか。
私は彼を、真実を照らす芸術家として評価してきたのではない。
むしろ、朝日新聞的言論空間の中で形成された歴史認識を、文学という形で世界へ流通させる存在として批判してきた。
南京事件40万人記述。
日本は中国と朝鮮半島に永久に謝り続けなければならないという趣旨の発言。
それらは、隠された真実に光を当てるものではない。
それらは、朝日新聞的な似非モラリズム、自虐史観、中国や韓国による反日プロパガンダに、結果として奉仕し得る言葉であった。
私の批判は、文学の技巧を問うものではなかった。
文章が上手いか下手かという問題でもなかった。
私が問うていたのは、芸術の本質である。
真実を照らす者なのか。
それとも、虚偽の歴史認識に文学的装飾を与える者なのか。
この差は決定的である。
2017年9月24日の章では、私はさらに、報道とは何かを論じていた。
そこで私が示したのは、本当に重要な事実を書かないことこそ、最大の問題である、という報道論である。
朝日新聞は、肝心な点を書かない。
最も重要な部分を書かない。
読者が本当に知らなければならない事実を隠したまま、別の物語を作り上げる。
それが朝日新聞の本質である。
これは、私が長年書き続けてきた「底知れぬ悪」と「まことしやかな嘘」の問題と完全に一致している。
嘘は、ただ事実と反対のことを書くことだけではない。
最も重要な事実を書かないこと。
肝心な背景を隠すこと。
読者の判断に必要な核心を伏せたまま、道徳らしき言葉で世論を誘導すること。
これもまた、まことしやかな嘘なのである。
朝日新聞的言論空間は、そのようにして日本国民を誤導してきた。
大江健三郎や村上春樹たちは、その言論空間の中で作られ、持ち上げられてきた存在である。
だから私は、彼らを厳しく批判してきた。
私が2011年から2017年にかけて書き続けてきた文章には、一貫した軸がある。
それは、単なる文学論ではない。
単なる政治論でもない。
単なる歴史論でもない。
私が問い続けてきたのは、真実を発見し、それを世界へ伝えることこそ、人間の最も尊い営みである、という思想である。
だからこそ、私は高山正之を高く評価する。
だからこそ、私は櫻井よしこさんを高く評価する。
そして、だからこそ、私は村上春樹を厳しく批判する。
私の評価基準は、一貫している。
隠れた真実に光を当てる者か。
隠された真実を世界へ伝える者か。
それとも、虚偽の歴史認識に言葉の装飾を与え、世界に流通させる者か。
この一点である。
私は十五年以上にわたり、村上春樹という一人の作家を批判してきたのではない。
私が問い続けてきたのは、真実を語る者とは誰か、芸術とは何か、知性とは何か、という、人類文明に共通する根本問題である。
隠れた真実、隠された真実に光を当て、それを表現すること。
それこそが芸術家の使命である。
それこそが、文明を前へ進める知性の使命なのである。