後藤新平『国難来』の警鐘――平和の仮面をかぶる外患と、国難に気づかぬ国民的神経衰弱
2020年8月7日。
1924年、後藤新平が東北帝国大学の学生を前に語った『国難来』。
「平和の仮面をかぶって、ぢりぢり寄せ来る外患」「国難を国難として気づかず、漫然と太平楽を歌っている国民的神経衰弱こそ、もっとも恐るべき国難である」という言葉を、新型コロナウイルスが世界を覆った2020年の日本に重ねる。
国難を直視する勇気、日本人的性善説の危険、メディアとアカデミズム、そして国民の一致団結について論じる。
以下は前章の続きである。
前章までの対話では、中国共産党の情報戦、米中対立、日米同盟、日本の安全保障と国家としての立ち位置について論じてきた。
本稿では、そこからさらに「国難とは何か」という根本的な問題へと議論が進む。
取り上げられるのは、関東大震災後の1924年、後藤新平が東北帝国大学の学生を前に行った講演『国難来』である。
後藤が約100年前に語った警告を、新型コロナウイルスの蔓延という国難に直面していた2020年の日本に重ねながら、真に恐れるべきものは目に見える危機そのものだけではなく、危機を危機として認識しようとしない国民と社会の精神状態ではないかという問題を問う。
国難来る
佐々木
今回の疫病蔓延はまさに日本の国難です。
今から100年近く前の1924年、後藤新平(1857年~1929年)が東北帝国大学の学生を前に講演した記録『国難来』(藤原書店)を読むと、まさに今の時代と状況が同じなのです。
岩田
後藤新平と言えば、台湾の近代化に尽力、初代満鉄総裁や東京市長を務めた人物ですね。
佐々木
関東大震災(1923年)の後、日本は東京を中心に大きな危機を迎えていました。
そんな時期に後藤は次のように述べています。
「平和の仮面をかぶって、ぢりぢり寄せ来る外患や、制度組織の美装にかくれ人情の弱点につけ込んで、徐々に国民の肉心をむしばむ内憂は、人これに気づかない故に備えず」
「あるいは気づいていながら、その現実を直視する勇気なきが故に、逆に自己の心をあざむき、一時しのぎの安易な瞬間の快楽に酔い、ついに国家と国民を破滅の底に陥れる」
と。
では、真に怖れるべきは、何かといったら、次の言葉です。
「国難を国難として気づかず、漫然と太平楽を歌っている国民的神経衰弱こそ、もっとも恐るべき国難である」
岩田
まさに至言です。
佐々木
神経衰弱になる理由は、目先の利益に目が眩むからです。
商売相手で人格的に好感を持つ中国人を普遍化し、中国は素晴らしいと信じ込む。
それこそが神経衰弱であり、国難に盲目となる理由です。
岩田
残念ながら、国際関係において日本人的性善説は間違っているばかりでなく、危険です。
こんな危機的な状況であるにもかかわらず、日本のメディアの中には、信じられない発言をする人たちがいる。
朝日の小滝ちひろ編集委員は「あっと言う間に世界中を席巻し、戦争でもないのに超大国の大統領が恐れ慄く。新コロナウイルスは、ある意味で痛快な存在かもしれない」(3月13日/原文ママ)とツイート、非難の声が殺到しました。
これこそ〝朝日新聞の正体見たり〟ではありませんか。
一般人の感覚とかけ離れていると言わざるを得ません。
佐々木
リベラルを自称する人に見られる傾向です。
所属している社会を憎み、その不幸を嗤(わら)う。
岩田
さすがに朝日も謝罪を書いていました。
アカデミズムの世界も完全に左派に侵蝕されています。
一例をあげると、私の友人がある会合に参加したとき、「我が国は」と言ったそうです。
そしたら、まわりから「〝我が国は〟なんて、右翼ですか?」と非難された。
「この国」という言葉を使えということです。
佐々木
「吾輩は猫である」と語らせた夏目漱石も右翼なのかな。
後藤は「この国難を救うものは、百の学問、千の経験よりも、一つの純真にあると信じる」と述べています。
若い人たちへのメッセージですが、今でも十分通じます。
日本人が得意とする一致団結で、政官民のみなで力を合わせて、この国難を乗り切りたいと思います。