京都府立植物園 2021年6月10日――花菖蒲、紫陽花、水辺の蝶たち メンデルスゾーン版
2021年6月10日。
京都府立植物園。
この日の写真は、私にとって、単なる植物園の記録ではありません。
それは、私が京都府立植物園という場所に、そしてそこに咲く花々、そこに生きる蝶たちに、ほとんど憑りつかれたようにして向き合っていた頃の、私自身の時間そのものです。
この日の主役は、花菖蒲と紫陽花でした。
薔薇の季節はすでに終わり、植物園は初夏の水気を帯びた、美しい季節に入っていました。
花菖蒲園の静かな色彩。
この頃の植物園の紫陽花。
蓮の葉の陰。
噴水のある場所。
百合。
そして、そこに現れる蝶たち。
私は、揚羽蝶を長い時間、飽くことなく撮影しました。
道端でカルシウムを補給する二頭の揚羽蝶。
そして、蓮の葉陰でモンシロチョウが交尾する瞬間まで、私は捉えていました。
私にとって揚羽蝶は、とても愛しい存在です。
蝶は、花と同じく、いや時には花以上に、その一瞬に命のすべてを現しているように見えます。
今年になって、私はあらためて気づきました。
京都府立植物園の花菖蒲園は、以前よりも簡略化されています。
長居植物園でも、アジサイ園のある場所が、以前よりも簡略化されています。
私は、前の姿の方が良かったと思っています。
その意味でも、私が2021年に撮影したこれらの写真は、貴重な記録集でもあります。
その日、その時、その場所に確かに存在していた美を、私は撮り続けていたのです。
真の画家も、写真家も、作品の中に、その日、その時の自分の時間を刻みます。
それは命であり、人生であり、哲学のすべてでもあります。
この第3版では、音楽に、反田恭平によるメンデルスゾーン《無言歌集》を使用しました。
上から順番に、作品全体が27分を少し超えるところまで収めています。
メンデルスゾーンの《無言歌集》という題名は、この作品にとてもよく合っています。
なぜなら、この日の花々も蝶たちも、まさに言葉を持たない歌そのものだったからです。
花菖蒲は、声を出さずに歌っていました。
紫陽花も、蓮の葉も、百合も、水辺の光も、言葉を持たずに、それぞれの命を語っていました。
そして蝶たちは、その歌の中を飛び、止まり、羽ばたき、一瞬の命を見せていました。
ドビュッシー版が、初夏の水と光の中に植物園を浮かび上がらせる作品だとすれば、ショスタコーヴィチ版は、同じ写真の奥にある時間、沈黙、思索を照らし出す作品でした。
このメンデルスゾーン版は、その二つとはまた違います。
これは、花と蝶たちが、もっとも自然な形で歌い始める版です。
メンデルスゾーンの音楽は、写真に過剰な意味を加えるのではなく、そこに存在していた命の気配を、柔らかく、明るく、そして深く受け止めてくれます。
花菖蒲の佇まい。
紫陽花の静けさ。
蓮の葉陰の湿度。
噴水のある場所の光。
百合の白さ。
揚羽蝶の愛しさ。
モンシロチョウの一瞬。
それらが、《無言歌》の流れの中で、まるで昔からそこにあった旋律のように現れてきます。
私は、この日の写真を見返すたびに思います。
あの日、京都府立植物園にあったものは、単なる風景ではありませんでした。
それは、花と蝶と水と光が作り出していた、言葉を持たない一つの音楽でした。
その音楽を、メンデルスゾーンは、まるで最初から知っていたかのように受け止めてくれます。
だから、この版は、花菖蒲、紫陽花、蓮、百合、蝶たちのための《無言歌》です。
そして同時に、2021年6月10日の私自身の命の時間のための《無言歌》でもあります。
これは、2021年6月10日の京都府立植物園を、花菖蒲、紫陽花、蓮、百合、噴水、揚羽蝶、モンシロチョウ、そして初夏の水辺の光とともに記録した写真集です。
同時に、それは、私がその日、その時、その場所で見つめていた命の時間の記録でもあります。