私のブログが全ブログ中1位であった事は、ある面で当然なのである――梅田北ヤードから始まった孤軍奮闘
2010年前後、梅田北ヤードの混迷に対して、私はたった一人で関経連、同友会、大阪市役所を相手に孤軍奮闘した。大阪を愛し、大阪経済の沈下を許せなかった私の原点を記す。
私のブログが、Googleにおいて、検索妨害等がない、自然な状態の時には、全ブログ中1位であったのが、ある面で当然である事…私は2010年7月16日に、梅田北ヤードの混迷=大阪の再興がかかった事業が混迷=に対して、2010年前後、たった一人で、関経連、同友会、大阪市役所を相手に、3か月間、孤軍奮闘した。
大阪・官民の叡智を集め20年かけて完成した戦後最高と言っても過言ではなかった都市計画通りに何故速やかに事業開始しないのか!
第二期分譲計画を止めて緑の公園にしよう等と、関経連会長に就任したばかりの住友金属工業会長の下妻博氏が突然言い出した。
呆れ果てるだけではなく大阪経済の沈下を永続的なものにしかねない愚言に大阪を人生の舞台として選択、全国的には無名の全くの中小企業である不動産会社を経営し最盛期のたった10年間だけでも170億円超の納税も果たし大阪を愛していた私は烈火の如く怒ったのである。
下妻博氏は札幌~東大~住友金属工業・社長・会長、私は仙台~京大のはずが高校3年開始と同時に明らかになった家計の破綻、家庭の不和の真因~この世界の、もう一人の私だったル・クレジオの出世作「逃亡の書」を実践。
実態は、世間の何処にでもある火宅の人だったのだが、父親の様々な態様が、日本を代表する進学校の文系で、いずれは日本の文壇に大きな足跡を残すのだろうと卒業文集の編集者に評された様な人間が必然として持っていた誰よりも鋭敏な感受性には耐えがたかった。
頃は全共闘の時代である。
哲学的にも未熟、政治の本質など知る由もないだけではなく、最高学府に進学したと言う事は学問を究める事であるとの単純な理屈、己の生活費は家族に依って成り立っている単純な現実も忘却して…彼らはほとんどが裕福な家庭に育ち理想的な勉学環境の中で育ったから、不具合な現実、実際は極めて愚かな声高な似非モラリズムに依る全国的な学生運動に簡単に飲み込まれてしまった。
加えて殆ど全員が朝日新聞や共同通信の影響下にある地方新聞の購読家庭で育ち毎日精読していたはずである。
当時はインターネットは無い時代…当然ながらSNSも無い。新聞・テレビの時代である。
朝日ジャーナルを読んでいた人間もいたはずである。
私が今でも心痛を覚えるのは、母校の年鑑に消息不明と掲載されていた程の状態だったから、一番の親友…お互いの実家を交互に宿泊した程の…が、私の実家に頻繁に送って来ていた葉書や手紙は、私の元には全く届いていなかった事である。
大分経って、実家に帰った折に、彼の文書を読んだ私は心が痛んだ。
「一律相反している事象を指摘する天才である貴君が、今、自分の目の前にいない事を残念に思う。私は学生運動の嵐の中で途方に暮れて佇んでいるのみである…」
彼は大器晩成型の人物で一浪して現役・浪人合わせて1番になった。
彼は、私とは全く違う理由で…母親の方が高校教師をしていた父親よりも年収がずっと高かった事が原因の…母親との心理的な葛藤を抱えていた。
私は偶然の出来事だったが父親の顔面に3発のパンチを放って家を出た。
彼は母親の頬を平手打ちして東大には行かず地元の東北大に入学。
就職先に選んだのは東北一の銀行…理由は立派な独身寮があったから。
大分経って、私は、彼の職場及び寮を訪問した。
彼は驚くほど抹香臭くなっていた。
眉間には深いしわが刻まれていた。
当時の彼の生きがいはタンノイのスピーカーでクラシック音楽、中でもモーツァルトの音楽を聴く事だった。
その頃、彼が殆ど毎日のように聴いていたのがモーツァルトの晩年の交響曲。
わけてもレクイエム。
抹香臭くなっていたのも当然なのである。
彼は法学部でドイツ語を選択していたはずだから、言わば、小林秀雄や吉田秀和の様にして音楽を聴いていた。
ありとあらゆるジャンルを、極言すれば響きの良し悪しだけで聴いていた私とは正反対。
昼食の時間がとうに来ているから、ここで一旦、筆を置く。